玲さんには『思い立ったが吉日』ということわざがとてもよく似合っている。
ぼくが今まで出会った人の中で最もよく似合っている。
そして、きっと、これから出会うどんな人たちにも勝ることはないと思う。
そんなぼくの「今まで」とは、たったの十六年だ。
ぼくは玲さんの『思い立ったが吉日』に少し気が立っていた。
放課後に特別に用事があったわけではない。
ただ、ぼくは突発的な予定に対応するのが苦手なのだ。
例えば、先生の都合で自習になった五限目の数学で何をすれば良いのかわからなくなる。
これと同じことだ。
昼休みの終わり、放課後に伊原さんの家に行くことに決まった。
伊原さんはなぜ他人のぼくたちに庭の手入れをさせたのか、そして、伊原さんの奥さんの失踪の真相を問いに行くのだと、玲さんはいう。
ぼくは嫌だった。
だから「明日にしましょう」と提案した。
しかし、玲さんは譲らない。
「明日やろうは馬鹿野郎なの」と言われた。
その言葉を聞いてぼくは黙ってしまった。
ぼくは、玲さんのその台詞に聞き覚えがあって、むしろそれをどこで耳にしたのか、思い出すことに夢中になって黙った。
嫌ならすっぽかしてしまえばいいのだ。
玲さんに従うことはないし、そうしなかったことで玲さんから何らかの報復があったとしても、それはそれで仕方がない。
いや、「仕方がない」というのはおかしい。
ぼくは報復を受けるようなことはしていないはずだ。
そんなことを堂々巡りで思っていたのだが、「馬鹿野郎」といわれたことがどうも引っ掛かる。
ぼくの意地っ張りで負けず嫌いはどこへやら。
結局、玲さんと柚原くんとともに伊原さんの家へ行くことに決めた。
授業後、昇降口にはすでに玲さんがいた。
玲さんは腕を後ろで組んでくすんだ白い壁にもたれ掛かっていた。
「千昭くんは?」
「もうすぐ来ると思いますよ」
「何で一緒じゃないのよ」
ぼくは黙ってその質問をやり過ごす。
質問の答えはもちろん、近づき難いから、だ。
柚原くんの雰囲気もそうだが、クラスメイトの柚原くんを避けるような態度に少なからずぼくは影響されていた。
当の本人は慣れているというか、全く気にしている風ではないのだが。
でも、これでは、一歩間違えればいじめではないか。
玲さんは気付いている。
全て分かっていてあえてぼくにその質問をした。
結果、ぼくはぼくなりに思うことがあったのだ。
しばらくすると柚原くんが現れた。
肩にかけた鞄の位置を直しながら、靴先で地面を叩いてかかとをしまう。
その仕草でさえ様になる。
顔に掛かった赤髪の奥からクールな瞳が覗く。
「何で一緒じゃないのよ」
玲さんは柚原くんに同じ質問をする。
しかし、その意味合いはぼくときのそれとは全く違うのだ。
柚原くんと目が合う。
柚原くんもぼく同様、その質問を黙ってやり過ごした。
きっと彼には彼なりに、玲さんのその言葉について思うことがあっただろう。
ぼくたちは自転車を走らせた。
ぼくには見慣れた風景でも、家がぼくとは反対方向の二人にとっては初めての風景のはずだ。
しかし、続くのは田畑のみ。
「どこも同じような風景よね」そう玲さんがいったように聞こえた。
前回は迷った道も、二度目となれば別である。
伊原邸の最寄り駅からの道順は頭に入っている。
一度通った道は忘れない、間違えない。
ぼくの特技だ。
駅前の緩い下り坂を進み、大きな橋を渡る。
特徴のないマンションと、色違いの立方体が密集する住宅地を進む。
目印にしたのは人が通るたびにやたらに吠える犬で、三匹をやり過ごしたその先の角を曲がればいい。
角を曲がり、数メートル先に周囲の風景から少しだけ浮いた空間がある。
真新しい建物に対し、土地と椿の木は昔からあるような、変に懐かし気分になる。
伊原邸だ。
玄関前の石彫りの梟像は相変わらず微笑のまま「Welcome」のプレートを抱えている。
前回のように勝手に門をくぐることはできない。
インターホンを押すのはぼくだ。
「伊原さん、いますかね」
「いなかったら待てばいいじゃない」
玲さんがぼくの背中を叩く。
「早くしなさい」
促されてぼくはインターホンを押す。
遠くでぽーんと音がして、やがてスピーカーから伊原さんの声がした。
ぼくが名前を告げると、伊原さんの声は途端に明朗になり、どうぞどうぞと快く招き入れてくれた。
なんだかそれが悪いことをしているような、騙しているような、妙なむず痒さを体のどこかで感じた。
「明日から仕事復帰だ」
テーブルの上にはマグカップが四つ、並んでいる。
中には黒色の液体が入っている。
ぼくはそれがコーヒーだと知っている。
さっきまで伊原さんはキッチンに立っていて、まだぎこちない足取りで右往左往していた。
その様子を見て玲さんが腰を上げたが、伊原さんは玲さんの動きを制して、ぼくたちに学校での生活について色々と訊ねた。
キッチンからは微かにコーヒーの香りがしていた。
「もうしばらくはデスクワーク中心かな」
ぼくは微かに頷いてマグカップに手を伸ばす。
はじめにカップに口をつけたのは玲さんだ。
玲さんは何口かそれをすすってから伊原さんに訊ねた。
「伊原さんに訊きたいことがあって、今日は、来ました」
「訊きたいこと?
何?」
「庭の、椿の木のことです」
「ああ、あの椿か」
伊原さんは優しく微笑んだまま、庭に視線を送った。
今ぼくたちのいるリビングには開けた大きな窓があり、その向こうにはあの日ぼくたちが手入れをした花壇と古椿が見える。
「あの椿が何か?」
伊原さんは相変わらず笑顔のままでぼくたちに問い返す。
その微笑みが、ぼくには作り物にしか見えなかった。
ただの先入観なのか、それとも。