退院して一週間が過ぎた。
四月も終わりに近づき、いよいよこの地域にも桜の気配がしてきた。
一週間前に降った雪の影響あってか、蕾の状態はあまりよくないようで、例年よりも開花時期は少し遅れるそうなのだが。
ぼくの急性気管支炎は幾分か良くなり、そろそろ一日三回の漢方薬生活ともお別れにしようかと思う今日この頃、玲さんがぼくたちの教室に現れた。
相変わらず、赤茶色の縁メガネがよく似合っている。
「そういえば、久しぶりですね」
「なによ」
「いや、怒らなくても…」
「怒ってないわよ。
ねえ、千昭くんは?」
ぼくは指をさす。
「窓際に」
玲さんはぼくの言葉は聞かず、席の間をじぐざぐに通り抜け、柚原くんと対面する。
ぼくは自席からその様子を眺めているだけだ。
わずかに二人の会話が聞こえてくる。
「なんで一人なのよ」
柚原くんは頬杖をつき、玲さんのことを見上げている。
「本を読んでいるからです」
「本って、図鑑じゃない」
「図鑑だって立派な本です」
「何の図鑑よ」
「植物図鑑です」
「いっつもこんな本ばっか読んでんの?」
「今日はそんな気分だったんです。
それより、何か用ですか?」
「伊原さんのこと」
「やっぱり、そのことですか」
「わかってるんだったら訊かないでよ」
柚原くんは一度図鑑に目を落とし、ふうっと息を吐いた。
「何が訊きたいんです?」
「何を視たの?」
もう一度、二人は目を合わせる。
「何の話です?」
「誤魔化さなくてもいいよ」
「葛城さんは視たんですか?
何かを」
「わたしは視てない。
シュウくんもね」
「だったらぼくも何も視てない」
「嘘よ」
「なぜそういいきれるんですか」
「今何の話してるの?」
柚原くんが顔をしかめる。
ぼくも玲さんが何をいっているのか、良く解らない。
「伊原さんの家での話でしょう」
柚原くんが苛立った口調でいう。
「そうね」
「どうしたんですか」
「わたしは『伊原さんの家で何を視たか』なんていってない。
一言も」
窓から風が吹き込んできた風が、玲さんが黒髪を靡かせた。
玲さんは右手で髪を押さえる。
「なるほど、そういう手できましたか」
「意外と上手くいったわね」
「油断しました」
「違う。
千昭くん、一瞬ムキになったでしょう。
『あんたに何がわかるんだ』って感じで。
ごめん、千昭くんの思ってるとおりよ。
本当に何もわからないんだ。
わたしたちには視えないし…。
でもそれを一人で抱え込まないでほしい」
「そうですか。
でも、ちょっと余計なお世話かもしれません。
ぼくは抱え込んでいるつもりはありません」
「じゃあ、千昭くんはそうなのかもね。
そういうつもりなのよね。
でもね、他の人からすると抱え込んでるように見えるの。
自分の中に閉じこもって、誰にもいえず、苦しんでるように見えるの。
そういう、他人の気持ち考えたことある?
そういう人見てるこっちはね、こっちも苦しいの」
積を切ったように玲さん口から言葉がこぼれ出した。
ぼくも柚原くんも、昼休みに教室に残っている何人かのクラスメイトもその姿を唖然と見つめている。
「わかりました」
やがて柚原くんが口を開いた。
「あのときはぼくも思わせぶりに余計なことをいいました。
すみませんでした」
「あ、いや、こっちこそ」
あまりに素直な対応に、玲さんは少し慌てているようだ。
柚原くんが綺麗な赤髪を優しくかき上げる。
「本当は首を突っ込みたくなかったんですが……。
伊原さんはもう退院してますよね」
「シュウくん!」
ぼくは立ち上がり、二人の元へと向かう。
「伊原さんは退院してるはずです」
「よし。
千昭くん、やる気になったのよ」
「聞いてましたよ」
「それなら話は早いわ。
千昭くん、どうする?」
「古椿にまつわる話、覚えていますか?」
「うん」
鮮やかに花を咲かせたままそれをポトリと落とす様子は死を、そして地面に落ちたその赤い花は滴り落ちた血を連想させる。
ゆえに椿には怪しげなイメージが付きまとう。
「伊原さんは古椿に奥さんの幻影を視たんです。
あの家にいるのが怖くなった。
だから入院を決め、そこで出会ったぼくたちに落ちた椿の花を処分させた。
だけど、少々相手が悪かったようです」