その日、黒野教授は随分疲れた様子で研究室のドアを開けた。
目は虚ろ。
白髪交じりの髪はいつも異常にボサボサ。
その上、異常なほどおぼつかない足取りだった。
「先生?大丈夫ですか?」
秋川は椅子から立ち上がり、教授に近づこうとしたが、
「大丈夫だ。」
教授はそれを制した。
そういえば以前にもこんな状態の先生を見たことあるな。
秋川はふとそう思ったが、そんな考えは早々に切り上げ、椅子に座り直した。
秋川は数学科の学生の質問に答えている最中だった。
「どこまで説明したっけ?」
「えぇっと、ここです。この数列のところからです。」
「そうそう、このフィボナッチ数列がね・・・」
僕がそう言った瞬間だった。
「フィボナッチ!!」
ガタンという大きな音と共に黒野教授は叫んだ。
教授は椅子から立ち上がり、両手で頭を抱え、天を仰いでいた。
立ち上がった勢いで、愛用の回転椅子は後ろに吹っ飛ばされ、クルクルと回っている。
秋川は質問に来た学生と顔を見合わせた。
両者共に驚きの表情だったのは言うまでもない。
そして秋川は冷静に、先生は遂に本当におかしくなってしまったんだ、そう思った。
「先生?だ、大丈夫ですか?」
恐る恐る教授に近づいた。
すると教授は上の方を見つめたまま、ポツリと言った。
「秋川君、フィボナッチ数とは?」
「はい?」
「フィボナッチ数とは一体どんな数字だ?」
「えぇっと、つまり・・・」
どうだろう?
これはいつもの調子の教授ではないか?
秋川はホワイトボードを引っ張ってきて、そこに数字を書き出した。
1
1
1+1=2
1+2=3
2+3=5
3+5=8
5+8=13
8+13=21
・・・・・・
「つまり一般式は・・・」
F(1)=1、F(2)=1
F(n+2)=F(n)+F(n+1)
(ただし、n≧1)
「先生、これで定義される数字がフィボナッチ数です。」
秋川が数式を書き終えて振り向くと、ホワイトボードを見つめている教授がいた。
「あぁ、その通りだ。フィボナッチ数は黄金比の他、自然界の現象とも密接に関係している。そんな偉大な数を私は・・・。」
黒野教授は力なく言葉をため息をついた。
学生は不安そうな目でこっちを見ている。
「先生?フィボナッチ数がどうかしたんですか?」
「いや、重要なのはその数列の方だ。」
教授はすでに回転の止まった椅子に腰を下ろした。
「フィボナッチ数列といえばあの有名な問題があるだろう?」
有名な問題・・・?
あぁ!
と秋川は指をパチンと鳴らした。
「兎の問題ですね!」
「その通りだ。」
ある日、ひとつがいの兎が産まれた。
つがいの兎は産まれて二ヶ月後から毎月ひとつがい兎を産む。
新しく産まれたつがいの兎達も同様に、2ヵ月後から毎月ひとつがいづつ兎を産む。
こうしていくと一年後、一体兎は何つがいになっているだろうか?
「まさにこの問題だ。」
「一体この問題がどうしたんですか、先生?」
教授は首を振った。
「秋川君、重要なのは問題の方じゃない。」
「はい?」
「毎年3回は必ず見るんだよ。白い生き物に追い回される夢だ。」
「はい・・・」
「そいつはピョンピョンと軽快なリズムで私を追いかけてくる。今日はその日だった・・・全く、悪夢だよ。」
「先生?それってもしかして・・・」
黒野教授は立ち上がり、ホワイトボード用のペンを手に取った。
そして、秋川が書いた続きから数字を書き始めた。
13+21=34
21+34=55
34+55=89
55+89=144
89+144=233
「1年後には233つがいのウサギ、つまり466匹のウサギになるわけだ。」
教授は再び椅子に腰を下ろした。
「そうだ。私はウサギが大の苦手でね・・・」