無牙~空羽の刻~05
MUGA ~AKIHANOTOKI 05~「えっ?!な・・なんだよこれ」自分の腕に見たこともない気持ちの悪いモノがあり、遼生は無意識にそこを右手で掻き毟ろうとした。「坊や、辛抱せい」だが、その腕は老齢とは思えない力で琺漣に止められてしまった。しかも琺漣はその手を振りほどこうとする遼生の腕を抑えたまま、深刻な表情で何やら考え込んでいるようだ。『いいわよ。助けてあげても』そんな2人の頭上から、アティーシャの高飛車な声が降る。小さな遼生は相変わらず琺漣の腕から逃れようとしているが、琺漣は驚いている様な縋るような表情でホラーの少女を見上げた。「よいのか・・・」『だから、いいって言ってるじゃない。どうせ、琺漣もそのつもりなんでしょ』琺漣は強張っていた表情を僅かにほころばせ、アティーシャを見上げていた顔を遼生へと戻した。「良かったなぁ坊・・ほんに、よかった・・・」何故だか泣きそうになった、それでも嬉しいそうな響きを持った声音でそう告げる。『なら、私は行ってくるわ』その横で、その声が聞こえたときには、すでに赤い人影はふっと立ち消えていた。それからの遼生は琺漣に説き伏せられ、しぶしぶその言い付けに従った。泣いても喚いても父も母も帰っては来ない、ということを幼いながらに悟ったからだ。そして自分もホラーの血を浴びたのだと。どのくらいの時間が、いや数日経っているかもしれない、この窓の無い部屋で琺漣と遼生はアティーシャの帰りを待っていた。もう何度目になるか分からない食事の後に、突然アティーシャは帰って着た。『やっと捕まえたわ』疲れを含んだ物言いでぶわっと何もない空間に広がった真っ黒い闇の中からその深紅の姿を現し、しかもその深紅の右手で誰かの腕を引っ張っている。『ワメワメ、ソユアラクサリヨタメカマ、タマイクリサゲアイヨノマロルサエェ』(やれやれ、こんな扱いをされたら、さらに追加で何を貰おうかねぇ)聞こえてきた意味の分からない言葉とその金属が擦れるような甲高い音の様な声音に、遼生は思わず両手で耳を塞ぎ体を強張らせた。『ブユ、アイヨリッケムオ。セリワスバタッシテリミクチカバヅン』(ふん、何言ってるの。契約はさっき成立したはずよ)しかもその変な言葉をアティーシャも使っている。だが、琺漣に向っては遼生も分かる人語で語り掛けた。『対価は”魔戒法師が使う魔導筆”になったわ』「そうか・・・よかろう」アティーシャは誰の魔導筆とも言ってなかったが、法蓮は自分の懐からゆっくりとそれを出した。『ロロ、ロロ!ソメザナゴルビクサ!ルヤタイバシリケロッカザニムオババネケヂャ!』(おお、おお!これが魔道筆か!噂には聞いておったが見るのは初めてじゃ!)耳障りな高音がさらに酷くなり両手で耳を塞いだまま顔を顰めた遼生だったが、ワサワサという多くの衣擦れの音にそうっとその目を開き、「ひぃぃっ!・・・・・」アティーシャの後ろから姿を現したソレに、一気に両目見開きガクガクと震えだした。「坊、目を閉じておれ」あまりの恐怖に自ら目を閉じることも出来なかった遼生の両の目を優しく手で覆い、そっと後ろから包み込むように抱き寄せてくれたのは法蓮だ。ワサワサカサカサという音はソノ体中を覆っている多色な短冊状のものだったのだ。頭、腕はあるが、短冊の様なモノが床まで続いており、足があるかどうかは分からない。腕の形は人の腕のようだが、その数は2本ではなかった。にょろにょろとしたものが、いくつも生えだしていたのである。色も肌色では無く、濃い緑色をしている。そして頭部は、頭全体に短冊を逆さに張り付けたような上部が下へ垂れ下がったものに覆われており、その垂れ下がった先に目らしきものや口らしきものが無数に動いていたのだ。体に強く力を入れたまま声を出さない為歯を食い縛っている遼生を、「大丈夫じゃ、坊。そのままゆっくりおかけ」と立ち尽くして居るその姿を目を覆ったまま優しく近くの椅子に座らせた。「ええ子じゃ。今度は、左腕を机の上に伸ばしてくれるかのぉ」遼生は震えながらも言われたとおりに、手探りで机の上に腕を伸ばした。よしよし、とその肩を撫でてから、法蓮はアティーシャの名を呼ぶ。「アティーシャよ」『仕方ないわね』アティーシャはそう答えると、遼生の左腕の服を捲り上げその腕に巻かれている包帯を外していった。その間も甲高い意味不明な声は続き、ワサワサカサカサという衣擦れより紙擦れに近い音はずっと続いている。『リクナゲノルサメケアリゲ、キャユコチゾコチアリタリン』(いつまでも浮かれてないで、ちゃんと仕事しないさいよ)『ルムタリオォ、ヤメイトユアそこパサミリルケロムコカリサヨブワツド』(ウルサイのぉ、ワレにそんなコトばかりいうておると対価を増やすぞ)『ブユ、ワメムノオアマワッケニアタリン』(ふん、やれるものならやってみなさいよ)『ビェェェェ~~、ヤ、ヤサッカヤリ。ヤメバセリワスバシッキミナノムユヂャ』(ひぇぇぇぇ~~、わ、分かったわい。ワレは契約はきっちり守るんじゃ)ソメバサレタユド(これは返さんぞ)と聞こえ、ワサワサカサカサという音が遼生に近づいて来た。すると手首と肘の辺りを手で掴まれ、押さえ付けられる。「ひっ・・」その余りにも冷たい感覚に、遼生は椅子に座ったままで体を後ろ引こうとした。「何も心配せずともよい。大丈夫じゃ」耳元で優しくささやかれ法蓮の声と、優しい手のぬくもりだけが小さな遼生を支えてくれる。『ツゲイツソチビモザッケロムオォ』(すでに少し広がっておるのう)『ラユカザタッタコゲケソアリサマン!』(あんたがさっさと出て来ないからよ!)『ルムタリオル。ブヌ、ブヌ、ソオボマーアマサユカユヂャ』(煩いのぉ。ふむ、ふむ、このホラーなら簡単じゃ)ボメ(ほれ)と言う小声なのに耳障りな声と同時に、遼生の目を覆ている法蓮の手の隙間から僅かに光の輝きが揺れているのが瞼を閉じていても伝わってきた。『リユヨツムオバロナレゲンリオヂャア』(印をするのはお前でよいのじゃな)『トルン。ボサイガメザツムッケリルオン』(そうよ。他に誰がやるっていうのよ)『アマ、タッタコソソイチョルシヨトトゼ』(なら、さっさとここに瘴気をそそげ)すると漏れ感じていた輝きが、僅かに陰り濃い紅に代わっていった。『ボメ、ソメザソワクオセッフルリユヂャ』(ほれ、これがコヤツの血封印じゃ)『ラコバ、リクノゴロミヂャ』(後はいつも通りじゃ)『ヤサッカヤ』(わかったわ)『ヤメザネリヂム ヤザチョルシヨラカレム ロオメザチョスツバヤザチョルシオニ ソソイトオキヨブルヂム』(我が命じる 我瘴気を与える 己が喰すは我瘴気のみ ここにその血を封じる)深紅の輝きが一際強く発すると、押さえ付けられている遼生の左腕に熱いモノが押し付けられる感覚が走り、咄嗟にその腕を引き抜こうとしたがやはり動かすことは出来なかった。だが、その痛みは直ぐに引き、それと同時にドクドクと疼いていた痛みまで消え去ったのだ。「坊はえらいのぉ。よう我慢した、じゃがまだ目は開くでないぞ」よしよし、とその暖かい手が遼生の頭をなででくれる。『・・・・・ソメバヤメガセゲバカネテウア、アティーシャントオボルチノンソテ』(・・・・・コレはワレだけは試せぬな、アティーシャよその法師も寄越せ)『バァ?!アイリッケムオカリサスバトメガセン!』(はぁ?!何言ってるの対価はそれだけよ!)『リスマロナレオリユザラッケノ、ビコゲラムソオボルチオヂュニョルバニヂリ。アマパ、ヤメイタチガチカボルザンリバヅヂャザ』(いくらお前の印があっても、人であるこの法師の寿命は短い。ならば、ワレに差し出した方がよいはずじゃが)聞き取れない言葉と法蓮の手の暖かさにいつしか緊張の薄れた遼生は、椅子に座ったままの状態で意識を手放していった。「遼生!おいっ!!貴様、聞いているのか?!!」成長した遼生を現実に引き戻したのは、ドンドンと激しく机を叩きながら喚き散らしているシグマの怒鳴り声だった。