報文紹介「クワガタムシの大あごやプロポーションに関する遺伝率について」

 今回の報文を理解しようとすると、その背景には「遺伝学」という深い学問領域があることを認識させられた。
 
 本来であれば、この学問をある程度理解した上で、今回の報文を紹介するのが好ましいと思われるが、数学(特に、確率・統計)を忘れかけた私にとってはとてもハードルが高かった。
 
 そこで、今回は見切り発車的に、(理解が不十分な状態で)報文の内容を紹介させて頂く。
 
 ただし、遺伝学はブリーダーにとって非常に有益な内容があるため、それらトピックについては、別途、何かの機会に整理して紹介しようと思う。
 
 さて、今回紹介する報文は、2012年発表の次のものである。
 
  
Title : Heritability of male mandible length in the stag beetle Cyclommatus metallifer
  
Author : Hiroki Goto, Keiichi Fukaya, Toru Miura
  
Journal : Entomological Science, Vol. 15, pp.430-433
  
Year : 2012
 
 題材として、メタリフェルホソアカクワガタを用い、大あごや、体のプロポーション比率を題材に遺伝率を推定したものである。
 
 今回の紹介は次のような構成で説明する。
 
1.報文の概要
2.方法・結果
3.遺伝学などの周辺知識
4.雑感
 
 そして、「1.」と「2.」では専門用語の説明は省略し、不明な点は「3.」を参照して頂くような進め方とする。
 
【1.概要】
 大あごが大きいのが特徴であるメタリフェルホソアカクワガタを研究題材として、狭義の遺伝率(「3.」で説明)を評価した。
 
 その評価に用いた特性値としては、大あごのサイズと、体のプロポーション(大あごと前胸のアロメトリー(「3.」で説明)関係)を用い、親の特性値とその親の遺伝子を引き継いだ子の特性値から評価した。
 
 その結果、大あごについては、相加的遺伝効果(「3.」で説明)については有意(「3.」で説明)な傾向が得られず、結論としては、大あごのサイズは(遺伝要因よりもむしろ)環境条件に左右されることと解釈された。
 
 一方、体のプロポーション(大あごと前胸のアロメトリー関係)については、有意な相加的遺伝効果が認められ、遺伝率は0.57(最大は1)と高い値となり、この関係には遺伝的要素が高いと考えられた。
 
【2.方法・結果】
 ここでは、実験方法ならびにその結果について説明する。
 
(試験生物)
 メタリフェルホソアカ
 
(評価)
 大あごの長さの狭義の遺伝率(h2)、大あごと体サイズ(ここでは、前胸)とのアロメトリー関係ならびにその(狭義の)遺伝率(同上)
 
(試験方法)
 ランダムに種親(雄)を39頭選択し、各雄に対して、少なくとも2頭の未交尾の雌と交尾させ、子を得る。
 その子を同条件で羽化まで飼育し、種親や子の雄の大あごや前胸のサイズを計測する。
その結果、
 
1.種親と子の雄の結果を纏めて、大あごのサイズ(縦軸)と前胸のサイズ(横軸)を両対数グラフでプロットすると、直線関係が得られ、重相関係数(r2 = 0.719)が高いことから、大あごと前胸には、アロメトリーの関係式で表わせることが分かった。
 
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図1
 
 
2.次に、種親の大あごのサイズを横軸に、その種親を含む同じ両親の子どもたちの大あごのサイズを平均した値を縦軸にしてプロットし、直線関係の有無を評価した。
(この親子回帰法では、直線の傾きの2倍値が狭義の遺伝率と推測される)
 
 その結果は、線形混合モデルを用いた最小二乗法で、傾きを求めようとしたところ、P値(「3.」で説明)が0.05を上回り、統計学的に有意な直線関係を得ることができなかった。
 
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図2 
 
 そのため、著者らは、大あごのサイズは環境条件に大きく影響すると推察した。
 
3.次にアロメトリーの遺伝率を評価するために、「1.」で求めた回帰直線を利用し、回帰直線上にある点が大あごと前胸の関係を示す理論値と見なし、種親や子どもの前胸から計算される大あごの理論値と実測値との解離値(大あご残差値)[図1に残差値を例示]を評価に用いた。
 
 そこで、「2.」と同様に、横軸には親の大あご残差値、縦軸には子の大あご残差値をプロットしたところ、有意な直線関係を得ることができた(P = 0.0279 < 0.05)。
 
 また、その傾きから求められた遺伝率(h2)は0.57と大きい値であった。
 
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図3 
 
 そのため、大あごと前胸のアトメトリー関係は、遺伝要因によって主に決定されていることが示唆された。
 
【3.遺伝学などの周辺知識】
 
有意(significance
 確率的に偶然とは考えにくく、意味があると考えられること。
 有意水準として、95%がよく用いられている。
 この場合、有意との結果であっても95%の確率で“偶然ではない”(≒意味がある、関係性がある)と判断できる程度である。
 P値が0.05以下であれば、95%有意水準を満たし、P値が0.01以下であれば、99%有意水準を満たす。
 
アロメトリー(allometry
 生物の形質値をXとYとすると、アロメトリーの関係はY = a x Xbで表すことができる。
 例えば、両対数のグラフでは、下図のように直線関係が得られる。
 
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図4 
 
 ただし、狭義的には、b≠1の場合である。
 その理由としては、接頭語の”allo-“は「異なる」を意味し、別途、”iso-”「等しい」を接頭語に持つイソメトリー(isometry)[b=1の場合]という表現もあるから。
 
遺伝率(heritability
 遺伝率には、広義と狭義のものがある。
 
 多くの量的形質(体サイズなど)値は正規分布を示しており、その形質の分散(
Vp)は、遺伝的要因の分散(Vg)と環境的要因の分散(Ve)で表すことができる。
 
 Vp = Vg + Ve
 
 さらに遺伝的な要因としては、相加的遺伝効果(a)、優性遺伝効果(d)、エピスタシス効果(i)があり、それぞれの効果の分散は、Va、Vd、Viとすると、次の式で表される。
 
 Vg = Va + Vd + Vi
 
 そして、広義(broad sense)の遺伝率(h2B)は、全分散(Vp)における遺伝的効果による分散の割合を意味する。
 
 h2B = Vg / Vp { = (Va + Vd + Vi) / Vp }
 
 次に、狭義(narrow sense)の遺伝率(h2N)は、全分散(Vp)における相加的遺伝効果による分散(Va)の割合を意味する。
 
 h2N = Va / Vp
 
 なお、遺伝率の評価は、主にこの狭義の遺伝率の方が利用される。
 
ポリジーン(polygene)形質
 量的形質値(体サイズ、大あご長さなど)の値が連続的に変化する場合には、複数の遺伝子が関係していると考えられている。
 
 そして、その一つ一つの効果は小さく、環境変異に隠れてしまうほどであると考えられていた。
 
しかし、最新の研究においては、実際には大きな遺伝効果を持つ比較的少数の遺伝子によって制御されていることも明らかになってきた。
 
相加的遺伝子(additive gene
 遺伝子の効果が足し算で評価できる効果。
 
 優性遺伝子がA、劣勢遺伝子がaとした場合、相加的遺伝子効果だけであれば、ヘテロ接合体(Aa)の遺伝子型値は2つのホモ接合体(aaおよびAA)の遺伝子型値の平均になる。
 
 そのイメージ図が下。
 
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図5 
 
 形質値とは、例えばサイズや重量である。
 
 そして話を単純化するため、ここでは対立遺伝子(Aとa)が1対1で存在していると仮定した場合の頻度も併せて掲載した。
 
 上図はあくまでも相加遺伝要因のみを考慮したものであり、実際の形質値には環境要因も加わるため、環境要因の寄与の異なる2種類の分布イメージを下に掲載する。
 
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図6(環境要因の寄与が比較的小さい場合)
 
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図7(環境要因の寄与が比較的大きい場合)
 
 環境要因の寄与が大きい場合には、形質値が連続的となり、同じ形質値でも、遺伝子型が異なることが起こりうる。
 
 上では、一ヶ所の遺伝子の効果であったが、ポリジーン形質のケースとして、関係遺伝子部位が4個あった場合には、対立遺伝子Aが取りうるパターンは、0~8個の範囲となり、Aとaの存在比が1対1の場合のそれぞれの確率を計算し、棒グラフにしたものが下の図である。
 
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図8 
 
 これより、形質値が最大になると期待されるAが8個の場合は確率は、たったの0.4%しかない。
 
環境要因(environmental factor
 環境という表現は意味が広過ぎて、分かるようで分からないこともある。
 
 ここでは、脚注の参考文献を基に、“環境要因での変動”について説明する。
 
 “環境要因での変動”は、同じ遺伝子を持った個体が似たような環境の中で育った場合に、“期待される形質値からの変動”を指す。
 
 下の図では、同じ遺伝子の個体群の形質値を例示し、形質値100が期待値であり、そこからの変動(上下の矢印)が環境要因による変動を意味する。
 
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図9 
 
 例えば、一定環境の人工飼育では、その制御された環境で飼育された個体の形質値の変動が、環境要因での変動と見なせる。
(制御された状況下で、制御できない条件(遺伝子発現のゆらぎ、極微小な環境の違い)は環境要因に含まれる)
 
 したがい、環境自体が大きく異なるところのものを比較した変動は、環境要因の変動とは呼ばないようである。
 
【4.雑感】
 この報文を読み込んでいくうちに感じたことは、この報文が巧妙に書かれていることである。
 
 この報文の結果考察は非常にシンプルであり、飼育者にとっての有益となる考察はなかったように思う。
 
 この研究結果から、他には何か言えないのかと、いろいろ頭を悩ませてはみたものの、報文で書かれていることしか、言えないように思えた。
 
(大あごの遺伝率について)
 上で説明したとおり、遺伝率を求める場合には、要因(factor)と言う専門用語が用いられる。
 
 そこで振り返って、見てもらいたいのは、大あごの結果についてである。
 
 ここでは遺伝要因には有意な傾向が見られなかったことから、環境条件(conditionに影響を受けていると表現されており、環境要因(factorの寄与については何ら言及していない。
 
 この表現は、巧妙な書き方だと思えた。
 
(アロメトリーの遺伝率について)
 私は遺伝学について、まだまだ理解不足なところがあり、それがアロメトリーの遺伝率である。
 
 この報文のように、導出された結果(高い遺伝率)と、直感的にイメージできる結果は、同じようであり、かつ、その評価手順も、一見そのようにならざるを得ないように思える。
 
 しかしよく考えてみると、遺伝率算出の鍵のとなる相加的遺伝効果は足し算で表される効果を評価するものであり、アロメトリーの遺伝率導出には、自然対数値を用いてよいのであろうか?
 
 対数値で評価すると、数学的な感覚として、相加的よりも相乗的な意味合いになり、相加遺伝効果の評価からかけ離れるように思える。
 
 対数値での評価でOKならば、図2の大あごの親子評価でも、対数値を用いてもよいのではなかろうかと思えてくる。
 
 このような数学的なところを突き詰めても、あまりブリーダーにとっては、有益なことは期待できないので、ほどほどに留めるとして、むしろ、大あごと前胸とのアロメトリー関係について、遺伝的要因が及ぼす影響の有益性について考えた方がよさそうだ。
 
(今後)
 遺伝学を現在も鋭意勉強中であり、非常に面白い学問である。
 
 いずれはインラインブリードの相加的遺伝効果についてやその弊害(近交弱勢など)、その逆に交雑[異種間の掛け合わせの意ではない]によるプラスの影響(雑種強勢)など、話題提供しようかと思う。
 
「3.」での参考文献:伊飼保雄著、量的形質の遺伝学
 
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本日のマンホールは、文字数制限のため、中止(汗)