報文紹介「脱皮ホルモンとその転写制御因子」

 先日、ブログの最後の3行で何気に、脱皮ホルモンのネタをブログに書くと予告すると、コメント欄で思わぬ反響があり、驚いてしまった。
 
 この度はその予告に従って、脱皮ホルモンについて書くことにする。
 
 私の予想としては、皆さんの予想通りのものになったものの、皆さんの期待には反してしまったのではなかろうか。
 
 
 予想通りのものになったこととしては、マニアック度が過去のものよりもアップしたこと。
マニアック過ぎて最後まで読んでもらえるのだろうか。
 
 
 そして、期待に反したこととして、この内容を読んでも、飼育テクニックの向上には直接結びつかないこと。下手すれば、間接的にも結びつかないかも知れない。この内容を土台にして、さらにあらゆる知見を調べ、頭を使わないと飼育技術と関連しないことは間違いない。
 
 
 さて、この昆虫ホルモンについて勉強して分かったことがある。それは、当たり前のことであるが、昆虫とは言え、生物は単純ではないことだ。そのような複雑な事象を、簡単にかつ分かりやすく書くことは私には到底できない。したがって、総説的な報文を紹介することによって、その著者の切り口から見たホルモンについて、何回かに分けて書くことになるだろう。その第一弾がこの報文となる。
 
   題名:昆虫の脱皮と変態の分子機構
   著者:上田 均
   雑誌:化学と生物,Vol.44,No.8, pp.525-531
   年代:2006
 
 また、過去の同じ著者の総説の下の2題も参考になった。また、ブログの図としても、ここからも掲載することにした。
 
   題名:昆虫発生過程におけるホルモン制御による遺伝子カスケード
   著者:上田 均
   雑誌:蛋白質 核酸 酵素,Vol.48,No.16, pp.2254-2260
   年代:2003
 
   題名:昆虫変態期における遺伝子発現機構
   著者:上田 均
   雑誌:蛋白質 核酸 酵素,Vol.44,No.14, pp.2049-2059
   年代:1999
 
 
 さて、マニアックな内容をいきなり始めたら、読み手も辛いだろうから、三章に分けることにする。勿論、オリジナルの報文には、こんな分け方はしていない。逆に言えば、どこで脱落しても、少しは役に立つように配慮させて頂いた。
 
   第一章 これだけは知っておこう脱皮ホルモンと幼若ホルモン
   第二章 次の内容のための予備知識
   第三章 さあ、脱皮ホルモンの機能の世界へようこそ
 
 
 では、先に進める。
 
 
第一章 これだけは知っておこう脱皮ホルモンと幼若ホルモン
 
 
 昆虫の加齢や羽化などの変態には、脱皮ホルモンと幼若ホルモンが関係している。この関係が下の図である。
 
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 脱皮ホルモンは幼虫の脱皮を促す作用がある。脱皮する際に幼若ホルモンが存在すると、その幼虫は、幼虫のまま加齢していく。しかし、脱皮する際に幼若ホルモンが存在しないと、蛹へと変態していく。なお、カイコの実験では、脱皮して加齢した直後の幼虫の身体に幼若ホルモンを塗りつけると、さらに脱皮して加齢するようだ。
 
 この脱皮ホルモンは、下の図のように、変態する時期に合わせて、パルスのように体内での濃度が振れ、また最高点の濃度も異なるようだ。このデータは、脱皮ホルモンで最も研究が進んでいるキイロショウジョウバエの結果であり、今後の結果も主に、この昆虫から得た結果となる。
 
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 このキイロショウジョウバエは、研究対象としては不幸なことに、幼若ホルモンの働きがあまり明確ではない。そのため、幼若ホルモンの研究が結果的に遅れているようだ。幼若ホルモンは、その作用が明らかなカイコでの研究が最も進んでいるようである。ただし、鞘翅目の中では、コクヌストモドキでの研究成果があるようだ。
 
 
 話が少し脱線したので元に戻す。
 
 専門書には「脱皮ホルモン」という単語はあまり用いられていない。通常は、エクダイゾン(エクジソン-Ecdysone)の単語が用いられている。その他の表現として、エクジステロイドと言った表現もある。そこで、この名前について整理する。
 エクダイソンは狭義では、下の構造式で示される化合物であり、ステロイド骨格を有するものである。
 
 
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 しかし、脱皮ホルモンはその化合物だけではなく、ステロイド骨格を有する類似構造のものも作用に寄与するため、これらを含め、総称としてエクジステロイドと言われている。
 
 しかしながら、主要な脱皮ホルモンはエクダイソンであることから、脱皮ホルモン=エクダイソンとして、表現されている研究者が多いようだ(本来(厳密に)では、脱皮ホルモン=エクジステロイドの表現にすべきと私は考えている)。
 なお、このエクダイソンは、脂肪体などで20位が酸化され、20Eの構造のものが、ホルモンとして主に作用することが知られている。
 
 一方、幼若ホルモンは、JH(
= Juvenile hormone)との略称でも用いられており、その代表的な構造式は、下のものである。なお、これにも、いろいろな類似構造のものがある。
 
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 この幼若ホルモンの研究は、脱皮ホルモンに比べると進んではいないものの、最近、クワガタに幼若ホルモンを投与する発表(北大より)もなされた。とある方のブログでも、飼育に応用しようと考えていらっしゃったりするようだ。
 
 私はそんな大それたことは考えていないが、飼育を真剣に考える場合には、加齢や蛹化に関連するホルモンの働きについては、頭に入れておいた方がいいかも知れないにように思える。
 
 
 
第二章 次の内容のための予備知識
 
 ここからは、クワガタの飼育とは全くかけ離れる。
 この章では、第三章の昆虫変態における各ステージでの体内のタンパク質の変化を理解して頂くために、その基礎として必要な予備知識的なことを書く。
 
 
まず、遺伝子(DNA)からタンパク質への変換について把握しておく必要がある。
 
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 DNAは、RNAポリメラーゼによりメッセンジャーRNA(mRNA)が作られる。この過程を転写という。
 そして、mRNAの情報をもとに、トランスファーRNA(tRNA)の助けを借りて、タンパク質が作られる。この過程を翻訳という。
 
 今回紹介する報文では、mRNAの転写を促進もしくは抑制する因子(いわゆる、転写因子)の挙動変化がテーマとなっている。
 
 では、脱皮ホルモンが転写因子とどう関わっているかというのが、下の図である。
 
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 黒いレールのようなものがDNAで、その中でTATA boxは、転写の開始位置を決めるものである。
 転写には、RNAポリメラーゼが関わっているが、転写に必要なのはそれだけではない。その周りにはいろんなタンパク質の複合体が形成している。そして、その複合体を活性化させると、転写が促進され、非活性化させると、転写が抑制される。
 
 この活性/非活性に関与しているのが、転写因子と呼ばれるものである。この図では、EcRとUSPの2量体(2個で1組)がそれに相当する。そしてその転写因子(EcR/USP)が結合するDNAがEc応答エレメントとなる。そして、この転写因子のON/OFFのスイッチのようなものが、脱皮ホルモンである。EcRはエクダイソン受容体(Ecdysone Receptor)と呼ばれ、ここに脱皮ホルモン(ここでは20E)が結合して初めて、転写が活性化されることになる。そのため、表現を整理すると、USPは単なる転写因子であり、EcRは受容体(型)転写因子となる。受容体に結合する因子は、リガンドと呼ばれている。
 
 
 第一章の図を振り返ってみると、脱皮ホルモンが各ステージで濃度がパルスのように増減していた。この脱皮ホルモンの増減によって、他の遺伝子の転写活性が制御されて、実際にはこれから生成したタンパク質も増減することになる。それが、上の説明でなんとなくイメージしてもらえただろうか。
 
 ここで混乱させることを書くことになるが、脱皮ホルモンによって転写が制御されて、発現が変動させられているタンパク質の中には、合成/分解に関わる酵素だけではなく、転写因子も含まれている。したがって、脱皮ホルモン群によって、転写が促進されて、増加した転写因子は、別の遺伝子の転写促進や転写抑制に関与している。このような関係についての具体的な話は第三章の図で表現させて頂く。
 
 
 
第三章 さあ、脱皮ホルモンの機能の世界へようこそ
 
 ここでは、読み手に色々と選択権が与えられている。雰囲気を味わうには、図だけを眺めればよい。それによって、脱皮ホルモンが如何に複雑であるかが感じ取れるであろう。
 
 もう少し、詳しく読み取ろうとすれば、下に載せる3つの図とにらめっこすれば、見れば見ると程、いろいろな情報が伝わってくる。
 私は、気ままな飼育者のスタンスなので、ここで載せている全てを暗記するつもりはない。単語の略語を頭の片隅入れておき、他のところで登場したのを見れば、このブログに立ち戻って確認する程度である。
 私のブログが備忘録であるのは、まさにこのような活用法を取るためである。
 
 さて、次に載せる
3つの図は、上から、2006年、2003年、1999年の報文のメインとなる図である。
 
 通常は、最新のものだけ見れば、最先端のことが分り、いいはずなのだが、3つを見比べると分るが、それぞれ、読み応えのある図であるし、相互を補完しあっている。
 
図では、→で表されているのは、出発点の転写因子が、矢印の先のタンパク質をコードしているDNAの転写を活性化していることを意味する。逆に抑制する場合には、線()の先が行き止まり(┫)の表示になっている。
また、図の時間軸としては、右から左に向けて、変態が進んでいる。また、各ステージで働く遺伝子群もあり、初期から働くものから、時間順に、初期遺伝子、初期-後期遺伝子、前蛹中期遺伝子、脱皮間期遺伝子、後期遺伝子、前蛹後期遺伝子とカテゴリー分けされている。これらのそれぞれの遺伝子の機能を知るには、ここから3つめにある図(表形式)を見ればよい。
 
 
では、この3つの図を列挙しておく。
 
2006年報文の図↓
 イメージ 7
 
2003年報文の図↓
 
イメージ 8
 
 
1999年報文の表↓
 イメージ 9
 
 ここまでくれば、峠は越えた。
 
 この転写因子の変動以外に研究としては、RNA干渉(RNAi)が脱皮ホルモンと関連している可能性が出てきている。
 
 また、DNAマイクロアレイの技術では、現在はロショウジョウバエの全遺伝子(約13,000個)が解析できる実験系が確立されているようである。
結果の一例として、唾腺、翅成虫原基、中枢神経、中腸、 表皮でそれぞれ変態初期(囲蛹殻形成時とその約18時間前を比較) のエクダイソン上昇に伴って変動する遺伝子が調べると、約17%にあたる2,268個の遺伝子発現が変動することが分っている。
 この報文では数しか書かれていないが、原理的には、どんな遺伝子が変動したかまで追跡できるはずなので、変動する因子群を詳細に解析すれば、面白い結果が出てくるであろう。
 
 さてさて、こんな実験系が、クワガタムシでは果たしていつ頃になれば、解析されるような環境が整うのであろうか。
 
 これで、脱皮ホルモンの第一弾は終了させて頂く。最後までお付き合い頂き、有り難うございました。