いよいよ真田丸も関が原の戦いに突入!と思ったら、一瞬で終わってた。
今頃はあちこちで「マジかよ」「予想はしてた」など色々な感想が出ていると思われ。


史実でもそうだったように、関が原の戦いの主力決戦は1日足らずでケリがついたわけですが。ドラマ内では知将と謳われる武将を含めても誰一人1日で終わるとは予想してなかったという風に描かれました。(唯一、前回放送で信繁が想像より早く終わるかも的な事は言ってたけど)


で、関ヶ原を題材にした色々な作品もそういう路線を踏襲しているわけですが、本当にそうだったんかな?と疑問を持ちまして、ちょこちょこ考えて調べてみた。


まず、誰も想像しなかったということは、過去にそういう戦史が無かったのが理由なのかもしれませんが、実は歴史を遡ると1日2日でケリがついた大規模な戦いは意外と存在します。

この場合の大規模な戦いとは、あくまで主力決戦のこと。
関ヶ原も決戦に至るまでに岐阜・大垣辺りでの睨み合いや小競り合いはありましたし。




・鉅鹿の戦い

「項羽と劉邦」で有名な項羽と秦軍の戦い。

楚軍(項羽軍)50,000程度  秦軍 30万とも言われる 

戦力差が凄い。


勝者は楚軍。この戦いで勝利した項羽は圧倒的な武力を背景に、西楚の覇王として天下に君臨することになる。が、結局は劉邦に負けてしまう。

記録や伝承を信じるならば、紀元前207年に決戦。項羽は配下に決死の覚悟を促す為に3日分の食料だけを残して他は全て焼き捨ててから攻撃開始。つまり、3日で勝利を得なければ飢えのために敗北は必至なので、3日以内にケリがついたはず。




・昆陽の戦い

 知る人ぞ知る人類史上最大のチートキャラ「光武帝」こと劉秀が新の大軍を打ち破った戦いで、後漢の建国に大きく影響していきます。

劉秀軍 8,000~9,000  新軍 400,000

桁が2つも違う・・・
シンと日本語で発音される国は大敗北を喫するルールでもあるのか。


ちなみに、残っている記録を信用するならば、西暦23年7月7日に決戦が行われた模様
古いお話なのですが、ともかくも記録の上では1日で決戦のケリがついている。




・鄱陽湖の戦い

朱元璋が陳友諒を打ち破った戦い。この戦いに勝利した朱元璋は、やがて明の太祖として明帝国を築くことになる。

朱元璋軍 200,000  陳友諒軍 600,000

数字は多過ぎる気がする。確たる証拠はないけど実数は1/4程度じゃないかなぁ。知らんけど。
決戦前の対陣は3ヶ月近く続いたが、決戦自体は3日ほどでケリがついたとされている。

この戦いは水上戦で、三国志演義における「赤壁の戦い」のモデルとなったとも言われ、知る人ぞ知る重要な戦いだったりする。鄱陽湖の名称は周瑜が水軍の訓練をしていた場所としてチラっと出てくる。




・湊川の戦い

南北朝時代。北朝方の足利尊氏・直義(尊氏の弟)が南朝方の新田義貞・楠木正成らを打ち破った戦い

戦力は諸説ありますが

足利軍 50,000  新田・楠木軍 25,000


記録を信じるなら1336年5月25日に決戦が行われ、1日で大勢は決した模様。
一応、日本にもそれなりの規模の決戦はあったようだ。



と、関ヶ原以前にも東洋にはこのような戦史が存在しており書物も残っている。対陣期間がどうあれ、一度堰を切ってしまえば決着はあっという間なのが野戦であるということを、当時の武将は知っていたとする方が自然だよなぁと。


特に家康は源氏を称しているので、尊氏の業績を知らないというのは不自然。家康本人が知らなかったとしても、幕僚が知らないというのはいくらなんでもあり得ない。


さらに、1年や2年といった長期戦は不可能。徳川軍は関東に基盤があるし東海道筋の大名もまぁいいんだけど、細川や黒田などの西国に領地を持ってる連中は兵糧が無くなってしまうから。東軍は会津遠征の状態でいるわけで、1年以上もの長対陣ができるはずもない。実際は福島正則や鍋島直茂の働きでそこそこの長丁場は可能になったけど、それは結果論ですし。


1日とは言わんけど、短期決戦の構想は家康側により濃厚だったんじゃないかと思う。


家康は若い頃から信長のやり方を見ていたから、戦いは主力決戦の場にどれだけ兵力を集められるかで決まるという原則を学んでいたはずなので、この大一番ではそれを忠実に実践しようとしたはず・・・と思うんだ。



直江兼続は関ヶ原が短期で終わる可能性を考えていたのは間違いないと思う。希代の学問好きだったそうなので、中国の史書に詳しくないはずがない。

ちなみに、愛の兜は愛宕権現からであって、決して恋愛ではない。



なんてことを考えた。