近頃、のんびりペースで「翔ぶが如く」を再読したのです。
明治10年の西南戦争を軸においた司馬遼太郎先生の長編ですね。
テレビなんかでもやってたし、知ってる人も多いと思います。
最初に読んだときは学生だったんですが、取り立てて感想めいたものを抱いた記憶が無くて、
「司馬先生すげーな」程度の印象だったんです。あの頃は司馬先生を妙に上に置いておいたというか、ある意味神聖視する傾向があったんですね。
それが再読してみると、結構違ってきたわけですよ。今でも先生を尊敬してる事に変わりはないのですけど、先生も人間だなぁ程度に降りてきたわけです。
読んでて気にかかったのは、あまりに大久保=太政官に対して点数が辛くて、西郷に甘いこと。
私は大久保利通という人を、日本史上最大級の政治家だと思っていて、ひどく尊敬しているわけですよ。
最大級の革命家でありながら、治世における最大級の経綸の才をも兼ね備えてた人物って、世界史を見渡してもほとんどいないわけですが、そんな人間が日本にいたという事が驚くべきことだと思ってるのです。
今の時代からすれば、冷徹に過ぎるという印象もあるんですけど、それは明治初年頃の世界情勢を考えれば仕方ないですしね。
冷徹ではあっても、私欲で己を満たす部分が無かったことも、今の政治家に見習わせたいところです。
織田信長が本能寺で死ななかったら?という妄想IFが語られる事はままありますが、大久保が紀尾井坂で死ななかったら?という想定も負けず劣らず影響が大きいと思う。
ちなみに、麻生太郎という人は大久保利通の子孫だったりする。現代に至っても薩長藩閥の影響が多量に残っていることが伺えて興味深い。明治政府は現代と地続きの存在なのだなぁと。郵便制度や鉄道や民法等の法律諸々、これ明治政府が基盤を作ってますからねー。
ま、麻生さんの最近のトンデモ発言を眺めていると、泉下で大久保さんが嘆いてるんじゃないかと心配になります。
ついでに、安倍総理も先祖は長州藩でそれなりの地位だったらしいし、どうも井上馨が遠縁にあたるようなので、これもまた藩閥の名残ですね。
さておき、なんで司馬先生は大久保に対して辛いのかを考えてみると、大久保がどうのこうのより「大久保の系譜と目されるモノ」が嫌いだったのだろうなと。
大久保の系譜というのは、その後の太政官そのものだ。この太政官ってやつが、やがては無謀な戦争に突入して、国家を壊滅させた。司馬先生は軍と政府の無能っぷりをリアルタイムで体験し、その害を被ってきたから、その面で怒りを抑えられなかったんじゃないか。などと想像するのです。
まぁ、大久保にも伊藤博文にも軍部独裁を進めようなんて思想は欠片も無かったみたいです。木戸孝允という人は、明確に軍と政治を切り離すよう言ってますしね。
あれはその後の軍部に不心得者がいて、憲法を恣意的に解釈して政治を壟断したから陥ってしまった事態であって、太政官を育てた大久保・伊藤辺りを責めるのは酷だと思う。伊藤博文という人は、とにかく戦争を避けようと色々な局面で努力してた人ですし。
ただ、太政官には山県有朋なんて人もいて、この人は高位の軍人でありながら、政治にも口出ししたがってたから、大久保というより山県の系譜の方が近いと思うけど。その山県でさえ、別に軍部が政治を壟断というか、ほとんどクーデター紛いの事をするつもりなんて微塵も無かったし。
やっぱり、解釈云々で好き勝手やるのは問題が多いぞっていう歴史の教訓なのかもね。
一方で、西郷が甘く採点されてるんだけど、これが皆目理解できないのね。
先生も書いてたけど、西郷には直に会ってみないと分からない何かがあるのかもしれんが、
ワタシは西郷という電流に対して絶縁体のようだ。何一つ共感するところがない。
彼が下野したことが西南戦争の大きな原因になっていくんだけど、下野自体は別に構わんのよね。革命家が治世をも担当できるかっていうと、ほとんどの歴史はそれを否定しているわけで。西郷もそれに漏れず、幕府を倒した後のビジョンは持っていなかったようだし。
そうなると、政権に与っていても害の方が大きい気がするから、野に下るってのも理解できる。
それはいいとして、薩摩至上主義・士族至上主義ってのは、もう論外な思想だと思うんです。
この時代の革命家ってのは、自由・平等っていう概念を旗印にして旧勢力を倒す存在がほとんどなんだけど、この西郷にとっての明治維新ってやつは、士族が士族の政府を倒し、士族による支配を続ける、という状態を希望していたことになる。ややこしいけど、要するに西洋の市民革命とは全くの別モノであって、果たして革命という単語を使ってもいいのか?ということさえ悩ましい。
よほど世界史的に稀な事件だったわけですね。
根っこにあるのがそういう思想だから、いざ西南戦争で敗勢が濃くなると、兵士や食料などの強制的な徴収をやったりしたわけですよ。それに異を唱えた人は斬殺されたりしたんですよ。これって恐怖政治そのものなんですよね。庶民の難を斟酌してない。
ハッキリ言えば、流賊・野盗の類と同じです。
ところが、西郷は配下がそういうことをやっても何も言わない。諦めていたのかなんなのか知らんけど、
仁者が聞いて呆れる。そういう事実を知らなかったというなら、余計に呆れる。
司馬先生は太政官を嫌いみたいだけど、仮に西郷が勝ったとしても、同じような軍部主導の国になってたと思う。いや、その前に日清・日露で日本は潰れていたか。
明治10年の西南戦争を軸においた司馬遼太郎先生の長編ですね。
テレビなんかでもやってたし、知ってる人も多いと思います。
最初に読んだときは学生だったんですが、取り立てて感想めいたものを抱いた記憶が無くて、
「司馬先生すげーな」程度の印象だったんです。あの頃は司馬先生を妙に上に置いておいたというか、ある意味神聖視する傾向があったんですね。
それが再読してみると、結構違ってきたわけですよ。今でも先生を尊敬してる事に変わりはないのですけど、先生も人間だなぁ程度に降りてきたわけです。
読んでて気にかかったのは、あまりに大久保=太政官に対して点数が辛くて、西郷に甘いこと。
私は大久保利通という人を、日本史上最大級の政治家だと思っていて、ひどく尊敬しているわけですよ。
最大級の革命家でありながら、治世における最大級の経綸の才をも兼ね備えてた人物って、世界史を見渡してもほとんどいないわけですが、そんな人間が日本にいたという事が驚くべきことだと思ってるのです。
今の時代からすれば、冷徹に過ぎるという印象もあるんですけど、それは明治初年頃の世界情勢を考えれば仕方ないですしね。
冷徹ではあっても、私欲で己を満たす部分が無かったことも、今の政治家に見習わせたいところです。
織田信長が本能寺で死ななかったら?という妄想IFが語られる事はままありますが、大久保が紀尾井坂で死ななかったら?という想定も負けず劣らず影響が大きいと思う。
ちなみに、麻生太郎という人は大久保利通の子孫だったりする。現代に至っても薩長藩閥の影響が多量に残っていることが伺えて興味深い。明治政府は現代と地続きの存在なのだなぁと。郵便制度や鉄道や民法等の法律諸々、これ明治政府が基盤を作ってますからねー。
ま、麻生さんの最近のトンデモ発言を眺めていると、泉下で大久保さんが嘆いてるんじゃないかと心配になります。
ついでに、安倍総理も先祖は長州藩でそれなりの地位だったらしいし、どうも井上馨が遠縁にあたるようなので、これもまた藩閥の名残ですね。
さておき、なんで司馬先生は大久保に対して辛いのかを考えてみると、大久保がどうのこうのより「大久保の系譜と目されるモノ」が嫌いだったのだろうなと。
大久保の系譜というのは、その後の太政官そのものだ。この太政官ってやつが、やがては無謀な戦争に突入して、国家を壊滅させた。司馬先生は軍と政府の無能っぷりをリアルタイムで体験し、その害を被ってきたから、その面で怒りを抑えられなかったんじゃないか。などと想像するのです。
まぁ、大久保にも伊藤博文にも軍部独裁を進めようなんて思想は欠片も無かったみたいです。木戸孝允という人は、明確に軍と政治を切り離すよう言ってますしね。
あれはその後の軍部に不心得者がいて、憲法を恣意的に解釈して政治を壟断したから陥ってしまった事態であって、太政官を育てた大久保・伊藤辺りを責めるのは酷だと思う。伊藤博文という人は、とにかく戦争を避けようと色々な局面で努力してた人ですし。
ただ、太政官には山県有朋なんて人もいて、この人は高位の軍人でありながら、政治にも口出ししたがってたから、大久保というより山県の系譜の方が近いと思うけど。その山県でさえ、別に軍部が政治を壟断というか、ほとんどクーデター紛いの事をするつもりなんて微塵も無かったし。
やっぱり、解釈云々で好き勝手やるのは問題が多いぞっていう歴史の教訓なのかもね。
一方で、西郷が甘く採点されてるんだけど、これが皆目理解できないのね。
先生も書いてたけど、西郷には直に会ってみないと分からない何かがあるのかもしれんが、
ワタシは西郷という電流に対して絶縁体のようだ。何一つ共感するところがない。
彼が下野したことが西南戦争の大きな原因になっていくんだけど、下野自体は別に構わんのよね。革命家が治世をも担当できるかっていうと、ほとんどの歴史はそれを否定しているわけで。西郷もそれに漏れず、幕府を倒した後のビジョンは持っていなかったようだし。
そうなると、政権に与っていても害の方が大きい気がするから、野に下るってのも理解できる。
それはいいとして、薩摩至上主義・士族至上主義ってのは、もう論外な思想だと思うんです。
この時代の革命家ってのは、自由・平等っていう概念を旗印にして旧勢力を倒す存在がほとんどなんだけど、この西郷にとっての明治維新ってやつは、士族が士族の政府を倒し、士族による支配を続ける、という状態を希望していたことになる。ややこしいけど、要するに西洋の市民革命とは全くの別モノであって、果たして革命という単語を使ってもいいのか?ということさえ悩ましい。
よほど世界史的に稀な事件だったわけですね。
根っこにあるのがそういう思想だから、いざ西南戦争で敗勢が濃くなると、兵士や食料などの強制的な徴収をやったりしたわけですよ。それに異を唱えた人は斬殺されたりしたんですよ。これって恐怖政治そのものなんですよね。庶民の難を斟酌してない。
ハッキリ言えば、流賊・野盗の類と同じです。
ところが、西郷は配下がそういうことをやっても何も言わない。諦めていたのかなんなのか知らんけど、
仁者が聞いて呆れる。そういう事実を知らなかったというなら、余計に呆れる。
司馬先生は太政官を嫌いみたいだけど、仮に西郷が勝ったとしても、同じような軍部主導の国になってたと思う。いや、その前に日清・日露で日本は潰れていたか。