今回でこの一連は〆にします。


巨瀬さんの失地を少しでも回復して、彼の犯した過ちに相応しい分だけの痛手を負えば済むようにしたいワタシです。現在の「痛手」はやり過ぎですから。


さて、どうしようかと思ったのだけど、ここは批判意見に反論したり、共感したり、ひれ伏したりしながら、少しでも痛手をやわらげる方向でいこうかなーと。




まず、最初に

「阿久津プロに失礼な事したんだから詫びろ」


まったく、そのとおりです。
前回も書いたけど、ワタシもそう思っています。この点に関しては100:0で巨瀬さんは悪い。



のっけから否定になりましたが・・・




「勝負に徹する・勝ちにこだわるのがプロ。その姿勢に不満を言うとは何事か」
「相手の弱点を突くことは当然の事なので、阿久津さんが非難される筋合いはない」



コレとても多かった意見ですね。


勝負に対する姿勢・価値観・美意識というのは、いくつもある事をご理解いただきたい。
また、「相手に失礼な事をする」のと「相手の姿勢に非を唱える」のは別です。


勝つことを第一に考えるのも正解でしょう。けれど、尋常の勝負で互いに力を尽くす事を"美しい"と考える人も有意なくらいには居ると思います。"プロは結果を残してナンボ"も正しければ、尋常に戦い、勝ち負けはその後のこと、という姿勢をこそ美とする人もいるわけです。


相手が怪我をしてる事が分かったら、そこを突いて勝ちを確実にするのも勝負であれば、お互いがベストを尽くせる状態での試合を好むのも勝負です。「ベストの状態のオマエに勝たないと意味がねーんだ!」という漫画的なアレが近いかもです。


正しい事と美学は必ずしも共存できない場面はありますが、互いを駆逐しようとするものでもありません。そういう葛藤の中で各々を激突させる事も勝負の興ですから。


そして、プロの中でも様々な美学があるために、阿久津プロは「この戦術を取ることに葛藤があった」のでしょう。"プロなら勝つことが全て"というのが唯一普遍の価値観であれば、そもそも葛藤を抱く余地などないからです。



ですから、頭ごなしに「阿久津プロの姿勢に文句を言うなんてとんでもない!」と言わずに、そういう美学の生きる余地を認めて欲しいのです。そも、阿久津プロ自身にもその手の美学が存在するからこそ、"葛藤"したのですから。

美学に対して「勝ちに徹する姿勢こそがプロ」という価値観で圧殺しまっては、阿久津プロの中にある葛藤を呼んだ美学をも否定しまうのです。これは阿久津プロにとっても本意ではありますまい。




「まだ勝負はついてないのに投了とは何事か」


次に多かったのはコレかと思いました。


将棋ってのは王・玉を取られる事で敗北が確定するので、そういう意味では勝負はついていませんでした。ですが、投了は、負けが確実とされるあの場面では仕方が無かったように思います。

なにしろ、阿久津プロは強い。
その強い阿久津プロが、この状況からしょうもないミスをして負けるというのは考えにくいですから。いわば、阿久津プロの力を認めていればこその投了だとも言えましょう。

同時に、自分の憧れたプロ棋士のあるべき姿とは違うものを見せられた幻滅感から生じたものでしょう。


自分が憧れたプロ棋士は、憧れのままであって欲しかったのだと思います。
たぶん、「何を子供のような事を」と、この感情を一蹴する"大人"も多いと思うのですが、敢えて言いましょう。「別にいいじゃないですか、すべての人が分別臭い大人でなくとも」


憧れを大事にし続ける人、どこかの時点でそれを曲げざるを得ない人、色々いて良いと思います。それを全否定されてしまうと、生きにくい世の中にしかならないですよ。



また、勝ち目の無い状況では速やかに投了することもマナーである。と考える棋士も相当数いるそうです。理由としては、相手に無駄な時間を潰させるのは失礼であるとか、汚れた棋譜を残すものではないという文化的なものがあるそうです。
これは個々人の考え方によるもので、他に強制するものではありませんが、そういう思想の方も多くいらっしゃるので、奨励会を経験している巨瀬さんが、それに従ったとしても無理は無いかもしれません。



他には「ソフトとプロ棋士の対決なのに、開発者が投了するのはおかしい」という異見もありますが、これは正しいようにも思いますし、違うようにも思います。

開発者による投了が不可なのであれば、投了を宣言した際に主催の方が認めなければ良いだけなので。つまりは、これは単なるレギュレーション不足であり、主催者のルール策定が甘かったと言うべき範疇のことかと。




「興行だってことを考えろ」


この批判も多いですね。でも、これって主催者を責めるべきですよね。そういうルールを作ったのですから。投了もOKであれば、ハメ手もOK、将棋ソフトの半年間改善禁止もOK。

そもそも、対局当事者の巨瀬さんをこの点で責めてしまうと、同時に阿久津プロをも責めてしまう事になります。阿久津プロもまた、興行を優先していたらハメ手を使わなかったでしょう。ハメ手を使うと将棋としての面白みが無くなるので、そっちを期待していたファンを裏切ってしまう。現にそれを残念に思う声は一定数あります。CPU対人間としての価値を見出す人もいるでしょうが、そうでない人も有意な程にはいたってことです。

プロ側が興行よりも勝負を優先したのは明らかです。ですから、責任の割合はどうなるか分かりませんが、10:0で巨瀬さんが悪いということにはならない。それが8:2なのか、9:1なのかは知りませんが、ともあれ双方に責任が生じると思います。


ですが、両者共にルール内で出来る事をやっただけですから、興行が~と責めるのは筋違いなんです。




「"最初から勝負にこだわってなかった"と言うなら、そもそも出てくるな」


これまた多かった批判です。これについては、巨瀬さんがどういう主観・立場で当日を迎えたかを想像してみようと思います。


まず、大会ルールに

「半年前から出場する将棋ソフトの貸出を自由にする」
「その時点から、いかなるプログラムの改善・アップデートも禁止」


というのがありました。このルールによって、半年以内に発見されたプログラムの"穴"を塞ぐことは不可能です。


で、そのルール以上に厄介だったのが、先だって行われた「100万円チャレンジ」と呼ばれるアマチュアさんが将棋ソフトと勝負する企画です。

この100万企画で、件のハメ手が一般に公開されました。それまでは、ソフトに詳しい一部で囁かれるような手だったそうです。

ここで肝心なのは、「巨瀬さんは、100万企画の時に初めてプログラムの穴を知った」という事実です。まぁ、悪意を持って見れば、情報収集能力が低いんじゃね?で終わってしまうのですが、ともかくも、彼はこの時初めて知ったのです。



つまり、巨瀬さんの主観ではこうなります。


・プログラムに穴があるじゃん。これ突かれたら、そもそも勝負にならないよ・・・
・え、半年切ってるからプログラム直せないじゃん!


こうなってしまうと、勝つも負けるも何も、すべて相手の出方次第で決まってしまうわけです。
つまり、相手がハメ手を使ってくるか否かで勝負が決まる。巨瀬さんが何をどうしようが、どうにもならない。

阿久津プロが人間に対するのと同じように指してきた場合だけ勝負になる。どっちにせよ自分ではどうにもならない。


巨瀬さんは100万企画の時に、CPUがアマ棋士にハメ手を使われて敗北するのを見ています。
直せるものなら直したかったでしょう。でもルールでそれはできない。


そして、いざ対局を迎えるわけです。



こんな状況で、最初から勝ちにこだわれるような人間がいるわけない。いるとしたら、現状認識能力が決定的に欠けている馬鹿だ。



これが実は早期投了の伏線だったと思うんです。先に書いたように、巨瀬さんは100万企画の時にCPUが負けるのをまざまざと見た。


そして、なんの対策を打つことも許されないまま、同じ局面が来たわけです。そりゃ辛いだろうと思う。自分が手塩にかけて作ったソフトが、これから確実に蹂躙されるわけだから。

重ねて言うけど、これは阿久津プロが強いためです。アマチュア棋士が相手であれば、ソフト側が優勢になり得ますが、いくらなんでも相手が強すぎる。




ちなみに、直前まで穴塞ぎが認められていた場合、そのハメ手を防ぐことは出来るそうです。
棋力とハメ防止のトレードオフで可能だそうです。


ハメ手が通用するのは、未来が多過ぎて計算しきれないのが原因なので、だったら未来を多くしなければ良い。つまり、最序盤の選択肢を限定すれば良い。こういった処理を施せばハメ手は防げるそうです。もっとも、トータルの棋力は落ちます。


棋力が落ちると言っても、改善するかしないかの選択権を自分が持ってるか持ってないかの差は大きいですし、落ちた棋力で勝負して負けたとしても、それは自分の力不足だと素直に認められたかもしれません。






まだ他にも批判はあったのですけど、多すぎるのでここで終わります。


ともかくね、人格攻撃・人格否定を外野がやってはいかんです。