この手のニュースを見るたびに、とっても切ない気分になる。

野良猫のキモチ翻訳機を開発してはいけない。



野良猫への餌やり禁止条例案だそうで。
この手の半野生動物と人間の関わりって難しいなぁと、いつも思う。

条例賛成派の言い分は、

・残飯の悪臭、糞尿被害やめてくれ
・鳴き声うるさい


条例反対派は

・野良猫死んでまうやろ
・京都のイメージダウンになるのでは?


ってのが大体のところ。



どっちの言い分も分かる。

とりあえず、パブリックコメントの7割が条例反対だったみたいですけど、パブコメって自由投票型だから実際に京都市民の何割が反対してるのか分からんのよね。無作為抽出による母集団の推計の方が、まだしも信憑性がある気はするけど。パブコメは受付窓口作って置いておけば、勝手に蓄積されていくから金がかからないし楽なのだ。


こういう議論は、理屈と感情が入り混じるので落とし所を見つけることさえ困難。どっちの結果になっても、必ず恨みが残る。ただ、世の中の難しさを思うだけにして〆ておく。




これからワタシの切ない理由を書く。



まず前提として、野良猫と野生の猫はまったく別モノなのである。野良猫ってのは、ざっくり言うと人間社会に半依存してる猫のことで、野生の猫は人間とはあまり関係無しに生きてる。そこが違う。



そもそも、野良猫が(人間社会に半依存してる猫が)増えたのは、人間の側に責任がある。


むかしむかし、猫は海を渡って輸入されてきた。猫は海を泳いで渡れないので、人の手によってだ。


当時の日本人は、猫をネズミ駆除に使ったり、愛玩用として愛でたりしていたそうな。まだ彼らの数はそんなに多いわけでもなかった。


やがて野山を駆け巡った猫たちは(犬と違って放し飼いにされる事が多かった)、人知れず数を増やしてゆく。が、しかし自然界には敵も多いので、加速度的にとか爆発的にとかからは程遠い。


ともあれ、ある程度増えたわけで、愛玩動物として猫を飼う人も増えた。けれど、全ての飼い主が理想的な飼い主であるわけもなく、無責任に捨てる人も多かった。ここにきて、野良猫は加速度的に増える。


今に至る。






人間の都合で海の向うから連れてこられて、人間の無責任で野良化したわけだ。
猫社会からしたら、日本人ザケンナヨと文句の一つも言いたいだろう。

そして、人間の無責任で野良化させられてしまった上に、邪魔だの臭いだのと言われる。いつの日か猫たちの反乱が起きる・・・?ことはないだろうけど、「猫の惑星」みたいなのを想像しちゃったりもする。


動物の言葉・キモチを翻訳する研究もされているが、絶対に完成させてはいけない。
延々と呪詛の言葉を聞かされる羽目になるだろうから。人間が他の生物・植物にしてきた仕打ちの酷さは、ひとつの種が行った事としては、自然界でぶっちぎりの凶悪さである。例えば人間の奴隷不可でも家畜はOKなのだ。人間だから。そういう風にできている。

万物の霊長という言葉をもって正当化を"謀って"はみるものの、地球社会からみれば人間は暴君である事に変わりはない。まさに生きる事は悪を為すことは同義なんだなぁと。

そんなこんなを悪く言うつもりは全く無い。だって、そういう風にできている。
ただ、それを他の生物が同様に思っているかというと、そんなわけは無いという話。



この辺りの事を思うと、どうしたって切なくなる。
今を生きる人々の大半にその罪は無いにせよ、元々は日本人の勝手な都合で、猫はこの憂き目にあっている。これで何の呵責も感じなかったら嘘だ。



条例の方は結局どうすりゃいいの?という問題は考える気もしない。
どうせ、八方丸く収まる回答など存在しないから。