歴史のIFを考えるのはヒッジョーに無意味なことは分かってんだけども。

それでも、もしも・・・を考えたくなるのはロマンとして許容してもらいたい、そんな明け方。



大の石田三成好きとしては、どうすれば関ヶ原で勝てたのかを考えずにはいられなくてですね。もちろん、敗因ならいくらでも上げられるんです。


たとえば、

・そもそも小牧・長久手の戦いで家康と引き分けたこと。事実上、敗戦だったと思うけどナ。位押しの外交で引き分けにしたという方が合ってる気はする

・福島正則を味方に付けられなかったこと。コレはでかかったと思う…。正則は豊臣一門みたいなもんだからなぁ

・せっかく人質作戦を実施したのに、ガラシャ婦人の自害とかでアッサリ取りやめてしまったこと。
そんなの想定内なんだから、、、それくらいで作戦止めるなよと。

・小早川秀秋が寝返ったこと。コレが直接原因としては一番かもね。



細かい事を挙げたらキリがないんだけども。


近頃は、コレが一番決定的だったのではないかと妄想している。
それは、「吉川広家に計数の才が無かったこと」だ。



吉川広家という人は、毛利元就の孫にあたるのかな。吉川元春さんのお子さんで、中国の王・毛利家の軍権を握ってた人なんだけど、要するにこの人が毛利軍の進退を預かってたのね。

毛利軍は大軍ですから、この人たちが参戦するとしないとじゃ全然違う。


少なくとも、関ヶ原の一戦だけを見れば、毛利が参戦していれば勝っていたはずと思うのね。
ゲームでも地図でもいいんだけど、両軍の関ヶ原における配置を見てみれば、どー考えても家康は死地にいたとしか思えない。

ワタシ、実際に関ヶ原に行って、色々見てきたことがあるんですが、どー見ても机上戦術なら家康は負けていた。行ってみりゃ分かりますよ。



家康らしくないんだよね、、、あの布陣。
諸事、慎重に事を運んできたのに、なぜ最後の総仕上げで大博打を打つのか。博打を打たなくても政略的有利は変わって無いので、その必要ないんだけどね。

つまり、家康の痛恨のミスだと思うんだ、あれは。



まー、その場合は全国を二つに割って長い戦いが続いたろうから、民衆からしてみれば一日でケリがついて良かったと思うけど。



ここでいう計数の才ってのは、

・全国の土地がどれくらいあるか
・西軍・東軍がそれぞれどれくらいを占めているか
・勝利時の恩賞にどれくらいの土地が必要か
・徳川家が支配体制を固めるのに必要な土地はどれくらいか



これらを計算・想像できる能力のことだ。



すっげー、単純に言うと


毛利家120万石。これはでかい。でかいも何も西軍最大だ。この領地をがっつり削らない限り、家康が味方してくれた大名に与える土地が足りない。



徳川家の領地を大幅に少なくするなら賄えるけど、それじゃ家康が天下を維持できないしね。
120万石の毛利をそのままにしておいては、徳川家の為にならんのは明白。



家康のズルさを広家は知っていたし、(っつか、当時の大身の人で知らない人なんていないはず)形式的とはいえ、西軍の盟主に毛利家が付いたってのは、それだけで処罰対象にできるんだ。難癖を付けるのは家康の得意技ですし…


なんで、こんな簡単な事が分からなかったんだろうかと。




毛利家は西軍の盟主になった時点で、もう中立は許されなかった。勝つしかなかったのですよ。


毛利が最初から勝つという意思で戦っていたら、長宗我部、安国寺といった面々も心おきなく参戦できたし、なにより小早川秀秋は寝返らなかったはず(小早川家は毛利の一族)。秀秋自身は血縁関係のない養子だけど、戦勢は西軍に傾いてたはずだから。

そーなると、脇坂辺りも寝返る事ができなくなって、大谷吉継らが背後を突かれる事もなかった。



ま、関ヶ原の一戦で家康が負けたとしても、最終的には勝つと思うけどサー。