休日だった木曜日の午前中、
親友のユウジが、我が家に
遊びにきた。

サーフィンの帰りに、
寄ったのだという。

彼は慶應時代のゼミの同期、
かれこれ10年以上の付き合いになる。

大手電機メーカーに勤めており、
同じ大学の彼女と結婚し、
今は、幸せな生活を送っている。

今はなかなか会う機会は
減ってきてはいるが、
オトコというものは、楽な生き物である。
久しぶりに会おうが、一週間ぶりに会おうが
そんなものは関係ない。

会った瞬間に、自然にスッと
昔の関係に戻れるし、
その距離感は、いつでも
そう変わらないものである。


それぞれの人生、
この10年間に、いろいろなことがあり
今がある。


彼は、僕の結婚式の友人挨拶をつとめ、
その数年後には、僕の離婚話を
笑って聞いてくれた。


そして、彼は素晴らしい
人生の伴侶と巡り会い、家庭を築き、
今はそれを守っている。


そんな彼と、
カフェでランチをしながら
それぞれの思いを、言葉を、
かわした。

いつしか、話題は「幸せ」についての
論議になっていた。


彼の考える「幸せ」とは、
僕が育ってきた家庭に通ずるものがあり、
僕の父の考える「幸せ」と
母の考える「幸せ」と酷似していた。

父の考える「幸せ」は、自分を犠牲にしてでも
家族の幸せを叶えることであり、
それが自分自身の男としての
充足感と「幸せ」につながっている。

そして、そのような家庭で育った
僕は「幸せ」だった。





ただ、
僕が考える「幸せ」

それは、いささか自分勝手で
ユウジのいう「幸せ」とは
形が違っていた。





30になり、
いわゆる「オトナ」といわれる
年齢になってしまった。


世の中が、少しずつ見えてきて、

自ずと自分の限界も見えてくる。

「できること」

「できないこと」

「やりたいこと」

「やりたくないこと」


若い頃のように、何に対しても
根拠のない自信で、
突っ走るようなことはしなくなった。


ただ、自分の中で
「変らないこと」があることにも
この年になると気づいてくる。


生きる目的や選択の基準は
色や形を変えても、
その本質は何も変っていない。


僕は、まだ青臭い。


同じ土俵で、同じことを
「ヨーイ ドン」で始めれば、
まず負ける気はしない。


僕は、まだ青臭い。

自分の好きなように
カッコ良く生きたいと思っているし、


心のどこかで

その手にセカイを欲しがっている。