自遊人は愛読誌です。
なぜなら編集部の「想い」と「情熱」がひしひしと時にヒリヒリと伝わるから。

2004年のある日突然、出版社は東京から地方へ。

わたし自身も安定してOL生活を捨てフリーランスに転身した年でした。

そしてはじめての妊娠を機に訪れた心身の変化、出産後の大震災後に襲った変化が
私の心に一気に問いかけてきました。

「この生活感で、いいの?」

Recrea storeも4月に事務所を東京から静岡へ移転しました。(規模の小さな移転ですが・・・)

こんな今だからこそ、東京新聞に掲載されていた記事に感銘をうけたので原文のまま覚書。
記事がとても上手くまとまっているので全文記します。


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東京から新潟県南魚沼市へ、編集部みんなで移転した出版社がある。
雑誌「自遊人」。
都会の一角で不眠不休を競って働いていた社長と社員が八年前、
豪雪地に移住し、仕事と生活の調和を手に入れた。大震災後、
家族との時間を大切に考え、働き方を見直す人が増える中、自遊人の大胆な試みを取材した。 (発知恵理子)

 小学校跡地に立つ元宿泊施設を改装した、木の香りが漂うオフィス。
窓から新緑の里山風景が広がる。
「雪解けして、ブナやフキノトウが芽吹いて。この時期は毎日、景色が変わるんですよ」と、
自遊人の社長兼編集長、岩佐十良(とおる)さん(45)が目を細める。

 自遊人は、岩佐さんが大学在学中に設立した編集制作会社が前身で、社員は約二十人。
二〇〇〇年に食と温泉がテーマの雑誌「自遊人」を創刊した。
部数のピークは十六万五千部。
中高年のライフスタイル誌では「サライ」に次ぐ人気誌に成長した。

 かつての編集部は、東京・日本橋にあった。
来客が絶えず、常に誰かが泊まるほどの忙しさ。働き詰めで体調を崩す社員もいた。
食事はコンビニ弁当やファストフードが定番。時間があれば評判の店を食べ歩いた。

 それが〇四年六月、南魚沼市に移転する。
コスト削減や米作りへの興味、健康のためなど理由は多々あった。
東京から新幹線と在来線で約二時間。独身の社員四人が移住し、
他は東京に残した営業部門などに異動、退職者もいた。

 岩佐さんは「東京で仕事し、消費し続ける生活がばかばかしいと思うようになった。
でも当時は変人扱いで、とても言えなかった」と振り返る。
メディア企業がわざわざ地方へ。
周囲は「情報感度が低くなる」「絶対にうまくいかない」と理解を示さなかった。

 移転すると、静かな環境のおかげで、以前と同じ量の仕事を効率的にこなし、
徹夜はしなくなった。土日はアウトドアを楽しむ余裕が生まれ、
夕食は社員が当番制で作る玄米と野菜中心の大皿料理を囲む。

 「情報を取りに行く姿勢があれば、どこにいても同じ」と岩佐さん。
収入は減ったが「全部を手に入れることは無理。この暮らしはお金で買えない価値がある」と言う。

     ◇     ◇

 風向きが変わったのは、〇八年のリーマン・ショックから。
特に東日本大震災後は「うらやましい」という声が圧倒的になった。

 食の取材を続けるうち、「読者に本物を味わってほしい」と考え、
国産や無添加などにこだわった食品の通信販売「オーガニック・エクスプレス」を本格化させる。

 原料や製法まで指定して自社で企画開発する商品は、しょうゆやみそ、
野菜ジュースはじめ五百点を超え、今では売り上げの七割は食品販売が占める。
当初は社員の“課外活動”だった米作りも、農業生産法人を立ち上げて本腰を入れ始めた。
その翌年、大震災が起きた。

 「何のために働き、何が大切で、何を捨てられるか。
自分の価値観がどこにあるのか。原発事故がみんなに、強引に選択を迫った」

と岩佐さんは言う。

 考えた結果、雑誌は五月号から発行を隔月から年四回の季刊に。前々から構想していた、
カフェや滞在施設、農園などを備えたファームを実現させるためだ。

 「米粒一つがメディア。実際に食べて体験してもらう方が、伝わる力が強い」。
今はファームの候補地を探しており、新たな地へ移住する日が訪れるかもしれない。