臨床の医師になったばかりの頃、ある勉強会で知り合った老夫婦に、息子がずっと家に引きこもり働かずにいて困っていると言われた。通院はしておらず薬も飲んでいない。特に暴力を振るうわけでもなく、二人の生活や精神状態を脅かすような激しい症状もない極めて陰性の当事者のようだった。話に聞く限りではどうせ部屋にでもこもってテレビアニメやゲームにでも没頭しているのだろうと、よくある引きこもりの部屋を想像し、浦島は患者の像をつくった。
 その両親はそれから何度か浦島の元へ診察に訪れるようになった。しかし息子を連れてくることだけはできないようだった。診察の中で両親から感じられたのは悲観や焦りではなく、もっと深刻なものであるように思えた。息子は昔と何も変わらない。やさしくて受け答えもしっかりする。言うことも聞く。だけど部屋からは出ることができない。ただそれだけができないと言った。

 何度聞いてもその話があまりにも不可解だったので、浦島は結局その男のいる自宅へと赴くことになった。息子の許可も取ってあるとのことだった。精神保健福祉士や看護師は同伴しなかった。

 家は古い木造で築三十年ほど経っていた。それでもどこか洋風で外観も周りの住宅と比べても遜色はなく、それどころか綺麗に手入れされた庭がとても印象的だった。家の中も落ち着いた雰囲気で、この中に引きこもって暮らしている精神不安定の人間がいるとはとても思えなかった。男の部屋は二階にあった。
 階段を上がり部屋の前に来ると、まず最初に両親が扉の前で先生が来てくれたということを伝えた。返事はなかった。部屋の戸は鍵もなく普通の扉で、ここに来るまでの家の中にも荒んだ感じや閉塞的な措置がとられているということはなかった。閉じて固まってしまった窓やドアなどをいくつも想像していたがそれはなかった。
 ただ一つだけ気になったことは、何かを摺るような音が問題の部屋の中から常に聞こえてきていたということだ。もしそれが説明の通りならそういうことなのだろうと浦島は思った。
 そして父親の手で戸が開けられた。

 部屋の中は特に変わった様子はなく、少し殺伐としていたがよくありそうな引きこもりの部屋だと浦島は思った。だが普通じゃないことが一つだけあり、それは言うまでもなく当事者であるその男の様子だった。
 そこには三十代後半の上下ともに煤けた服を着た男が前かがみで立っており、その六畳間のフローリングの床の真ん中をただひたすら、グルグルと回っていたのだった。
 異様な光景だ。まるで真ん中に目に見えないポールが立っていて、その周りを正確に円運動しているみたいだった。下を向き、真剣な顔で、何かに取りつかれたかのように規則的な運動を繰り返していた。

 

 何だ、これは

 

 それが浦島の第一印象だった。空間の用途がおかしい。そう思った。
 来客に気が付くと、男は浦島の方を見て少しだけ笑った。ぎこちない笑みだったが、その顔は浦島には忘れることができないほどの印象となってつよく突き刺さってきた。同時に先ほどまで心に映していたその男のとりあえずの像は一瞬にして直された。
 もし話に聞いていた通りなら、この男は今この場でだけではなくずっと回り続けている事になる。本当にそんなことがあるのだろうか。しかしそれを裏付けるかのように、床にはカーペットが敷かれており、その上には男のその労働の跡が黒くはっきりと摺り込まれていた。両親の話によると最初は床の上を歩いていたそうだが、床に黒い跡が残るのでカーペットを敷いたそうだ。
 浦島は少しのあいだ、その部屋に留まりその男といくつか言葉を交わした。
「疲れないか?」
「疲れます」
 男はそう言って笑った。だったらどうして。何もかもが理解し難い。そう思った。受け答えのあいだも、男は当たり前のように回り続けていた。どうやら自分はそれを止めるきっかけには至らないようだった。最初は浦島もあまりにその姿がいたたまれなくて、少し休ませようという方向で話しかけていたが、だんだんとその男と自分とのあいだには住んでいる世界に隔たりのようなものがあるのを感じ、何もせずにただこちら側に引き寄せることには罪のようなものを感じた。
「また来ます」
 そう言って浦島はその家を後にした。

 その後、何度かその家に往診を重ねたが、浦島はだんだんその男に興味を抱くようになっていた。男もまた、性格的にも対人能力においても少しぎこちなさはあるものの、特に難は見られず、独自の世界へと没頭しながらも少しずつ浦島にも色々な話をするようになった。

 男は厳しい環境の元で育ったと言った。こうあるべきだ、こうでなければいけないなど、でもそれは親なりに悩んで出された接し方であることも男はわかっていた。この団地内にも心ない人間関係がいくつもあるということも知っていた。そんなどこか窮屈で不器用な環境で育ったせいで、体にも心にもぎこちなさが蓄積され、その男は学校やその後の生活にも暗い影を落としていた。

 男の所作はどれもが奇異だった。食事は部屋の真ん中で正座をして食べていた。椅子もテーブルも使わずに全て床に置かれていた。ときどき身を起こし、中腰のような姿勢で何かを考え込んでいた。右手に箸を持ったまま、箸先が少し動いていた。円を描いているように見えた。となりで猫が行儀よく座っていた。
 男はこれらの奇妙な行動を毎日繰り返しているわけだが、回り続けることに関しては休める時間が結構あった。それは寝るときと食事やトイレなどに行くときの他に、猫と一緒にいる時間だった。
 この家には飼い猫が一匹だけおり、時折男の部屋へとやってくる。階段をとんとんと上がってきて半開きの戸を押し開けてゆっくりとやってくる。そして部屋の中で男を見上げたり、室内を物色したり、どこからか入り込んだ小さな虫を追いかけたり、ただ静かに座っていたりしていた。
 その姿を見て男は行動を中断し、机の上に用意されていた食事の中から肉や魚などを適当に取って小さな皿に分けてやり、床の上に置いていた。猫が食べ終わるのを確認すると、またグルグルと回りだす。
 ある期間に限られたことだったが、猫はいつも必ず男の寝る布団の足元で寝ていた。寝床は一階に用意されていたが、そこは使わなかった。ある時期を境にそんな光景は見られなくなり、一階の寝床で寝るようになった。

 猫はある日、カーペットの上に座り込んで下を向いているこの飼い主の男の姿を見つけた。ただ心配そうに男を見上げていた。部屋の真ん中で正座をして、ひざの上に手を置いて、ただじっと俯いていた。
 それ以来、猫は一日に二三回、ときには一回だけ、この部屋へやってきてえさをせがんだ。男は足を止め、えさを与えた。猫は布団では寝なかった。

 猫が男を見上げる。
 目が合った。
 静かな時間が流れる。

 浦島が一つだけ引き出せなかったことがある。それはこの旋回運動の動機だ。

 グルグルしていないと、お父さん、お母さん、知り合い、知り合いの知り合い、この町、人類、そして地球が本当に、ほんとうの本当に死んでしまうからだ。自分がこうやって地球を回し続けるしかない。誰も回し方を知らないから、自分がやるしかない。
 もちろん男の考えの中には、そんなはずはないという常識的な観念もあった。しかしそれを凌駕するほどの世界に対する認知と自己検討能力の低さと、その元凶ともなる全方向からの得体の知れない圧迫感があった。いつも目に見えない壁に迫られているような感じで、正常な思考をゆっくりと広げられる場所がなかった。グルグルだけが、その圧を鎮められた。グルグルの後だけ実感することができた、安心することができた、全てを守ったという健康な世界がそこに広がった。そしてそのひと安心の少し先には、またあの強迫的な圧と、唯一のグルグルが視界に広がり続けていた。永遠に。終わりは見えなかった。

 

 男はこの数年後にいなくなっている。精神疾患を持つものが体を壊して早死するのは珍しくない。彼の考えの通りなら、地球は動力を失っているはずだ。しかし世界は回っている。両親も町も人類もみな毎日幸せを求め、自分の人生の答えを探し続けている。

 この世のどこかよくわからない場所に見たこともないドアがある。
 そのドアの上では、小さな動物が不気味な笑みを浮かべて踊っていた。

 そして、そのドアの向こうに、ほんの微かに、煤けた服の後ろ姿が見えた。
 同じく煤けた毛色の猫が一匹、足元に座っていた。

 

 男は最後の風景の中で、伸ばされた人の手を見た。

 掴むあてもなく、伸ばされたその手は無慈悲だった。

 救いがなかった。

 男は生前の苦しみをすべて何かへと交換してそこへ差し向けた。

 手はそれを掴んだ。

 

 戦略付随。

 

 死ぬまでたたかい続けなければならない

 もうできない

 手が言った。

 

 どこにもいけないのなら、一つだけ、隠れられる場所がある

 そう答えた。

 

 しかし、掴めていたのはほんの僅かな時間だけだった。

 

 

 冬の朝。

 浦島は重い体を起こして周りを見渡した。窓の外は少しだけ明るくなっていた。
 夢の内容を思い出した。


 浦島先生、あとを頼みます

 

 現実の予定を確認した。まだ担当医師のところに自分の名前が連なっているのが見えた。

 俺は何もできないんだ。何の力もない人間なんだ。

 そう言ってまたしばらくのあいだ自分を手放した。