浦島は着ていたハンティングジャケットを脱いで車の助手席に置いた。ことに当たる前にいつもやっていることを思い出した。浦島は心を静かに低くしていった。
 以前、精神病を島にたとえた患者がいたのを思い出した。私たちはそこに流れついた漂流者だと言った。過酷な環境で命が尽きるまでもがくしかないと。その患者は浦島のことを補給部隊だと言った。浦島はそれを聞いて耳が痛かった。自分は補給が済めばさっさと島をあとにしてしまうからだ。
 毎日こんな世界にいてはおかしくもなるかもしれない。
 家の六畳間や格子の入った保護室は、命を直接脅かすものはないけれど、正体の定まらない煉獄がそこにはあると言った。世の中の流れから分流したみたいに矮狭な内的世界へと入り、そこでひたすら行われる儀式行為がある。駆り立てる動機は人によって様々だが、だいたいはその内的世界を守るために行われる。そこには大事な人や大切なものがあると思うからだ。苦しみを伴うその手立ては一部の人間のあいだでは「滅法」とよばれている。
 心にある種の負荷をかけることで、一時的にこれにちなんだ簡易滅法を行うことができる。この世に三つ存在する、同刻超過の裏技「狼転」である。

 黒い車はどうやらレンタカーのようだった。近づいたときに見えたナンバープレートがそう告げていた。車内に人の気配はない。持ち主を示すようなものも何も置かれてはいなかった。浦島は注意深く周りを観察したが人の気配はなく、車内にも手がかりになるようなものは何もなかった。タイヤに血の跡はないから、自分のように異変を確かめる側の人間ではないはずだ。動物たちも路肩に集められているとはいっても数が多く、すべてを避けてカーブを曲がり続けるのは非常に困難だったからだ。タイヤを調べたときに触ったブレーキローターはまだ熱かったから停車してからそんなに時間は経っていないはずだ。この車の持ち主がおそらく異変の原因と考えて間違いはないだろう。
 考え事の中で浦島はある違和感に気がついた。空気が何だか重たい。景色の中にある冷たい空気に体が押し戻されるような感じがした。歩こうとして踏み出す足も、車体を調べている最中の手も、何故か力が入ってしまう。
 浦島は急いで自分の車に引き返した。そしてすぐにエンジンをかけて山道を発進させた。どうやら外的な要因ではないみたいだ。とどまり続けるのは危険だと判断した。
 しばらくすると道は下り坂になった。それと同時に体の緊張もだいぶ落ち着いてきたようだ。気がつくと、窓の外には動物たちの姿も見えなくなっていた。やっぱりあの車が原因のようだ。
 圏外へと逃れるように山を下っていくと、やがて古びた旅館や民家が道路沿いに見えるようになってきた。「お弁当」や「宿泊できます」と呑気に書かれたのぼりも見えた。もうすぐで麓の町に着くはずだ。
 浦島は考えを整理させた。峠でたくさんの動物たちを行動不能にしていたのはおそらく異常波と呼ばれるものだ。それも消極性の異常波だ。空気を鬱屈とさせる異常波をここまでつよく、しかも意図的に出している。鳥や獣に一匹ずつ浴びせていったのだろう。峠の空気を思い出そうとしただけで手がこわばってくる。体の芯から寒気が湧いてくるような感覚だった。
 私を特定してのことなのだろうか、それとも無差別に行われているのだろうか。
 浦島にとってそれはとても重要なことだった。不穏な思考が浮かんできていた。のどが渇いたけれど、隣りにあるペットボトルの水は飲む気になれなかった。遠くに山道の出口が見えてきた。交差点と信号がかなり先に見える。その手前の方にある、小さな川の橋にこれから差し掛かろうとしていた。
 浦島はその橋の手前で車を止めた。そしてペットボトルを手に持って車を降りた。
 疲れきっていた浦島の精神状態は少しばかり消極的になっていたのかもしれない。不安を拭いきれなかった浦島は、川の水に向かってペットボトルのふたを開けようとした。そのとき。
「ゴミを捨てるな」
 声が響いた。
 目の前からその声は聞こえた。たぶん橋の下からだ。浦島は精神の精度を絞った。まだそれくらいの余力なら十分ある。だがそれは一瞬で押し戻された。景色が自分のもとを離れていくのがわかった。この感じは間違いなくあの感覚だ。どうやら先を越されてしまったらしい。こうなってはもう手の施しようがない。浦島は観念して橋の欄干に手をかけて下を見おろした。
 小川の中に男が一人立っていた。くすんだみどり色のフード付きのジャンパーを着て、長靴を履いていた。同じく濃いみどり色のズボンを履いていた。男はフードをかぶり、こちらを見上げているように見えた。それは橋の上からでもわかるくらいに異様なほど、淀みも滞りも感じられない立ち姿だった。
 時折、風景が紫色に閃いた。ほんの一瞬だけだからとらえるのは難しいが、その一瞬の閃光の中に鷹の影が映り込んでいた。どうやら清浄展開を許してしまったらしい。これを上回れない限りは、ほぼすべての権利を相手に握られることになる。外ではもうすでに日か暮れかかっていた。空の端が赤くなっている。浦島はこの日だけでもう何回目かわからないほどの狼転を繰り返している。とても上回れる自信はなかった。男は見上げながら言った。
「聞こえなかったか。ゴミは捨てない方がいい」
 浦島は昼間の店内での話を思い出していた。

 善は三人の同胞を連れていた。

 男は黙ったままの浦島に向かって言葉を続けた。
「浦島先生。今日は、何の日か知っているか」
 考えがうまくまとまらなかった。たしか行方もわかっていないんだった。男は何かを言い続けている。
「あなたの誕生日だよ、ドクター」
 誕生日は数日前に過ぎている。浦島は手に持ったペットボトルを茫然と見つめていた。それを見て男は言った。
「私からのプレゼントだ」

 雪村、
 お前の言うとおり、あきらめない方がいいのか
 まだ俺にできることがあるのだろうか

 かすれた景色に水が跳ねる音が聞こえた。
 気がつくとすぐそばのコンビニの駐車場の隅に車を止めていた。外の景色は夜だった。
 運転席のシートが少し傾いていた。水の入ったペットボトルがそばに置いてあった。
 車の鍵がポケットに入っていて、運転席の窓からはほんの僅かな町の明かりが見えた。

 十二月の中頃、浦島は病院に退職の届け出をだした。
 一度は失った、目の前にまたぼんやりと明かりが灯るのが見えた。浦島はただそれに向かって誘われるように歩きだした。