午後から病棟の方に戻らないといけない、と言って浦島が席を立とうとすると、「私も行くよ」と言って雪村は紙コップと空のマグカップを片づけて店の外に出た。そして車で病院へと戻る浦島をそばに立って見送った。別れ際に雪村は、

「あきらめるのはいつでもできる。そう思っていればいつか、あきらめなくてよかったと思えるときが来るかもしれない」
 そう言って軽く手を振った。車のバックミラーに少しのあいだ、その姿が映っていた。
 店をあとにして国道をしばらく下っていくと、窓の外はだんだんと閑散とした風景に変わっていった。ここから山道へと入り、山を二つ越えれば着くはずだ。明るいうちにはきっと着くだろう。浦島は店内での話の内容をもう一度思い返してみた。できるだけ順序通りに一つずつ確認していった。雪村もめずらしく今日は色んなことを話してくれたようだった。もう少し楽に相手にできたらいいのだけど、どうしてもまだ患者を前にするときと同じように神経を使ってしまう。それにあの話が出てくるとも思っていなかった。
 我孫子善。
 何年か前にあのメンタルヘルスのSNSサイトで知り合った。自分は統合失調症の患者だと言った。少しだけメッセージのやり取りをした。浦島はある独創的な視野を一つだけ持っていた。それは人間を見たときにその人の後ろに隙間が控えているのが見て取れるというもので、その隙間がどういうものかによってその人間がどういう傾向なのかが少しだけわかるのだった。
 隙間には大きく分けて二種類あった。ひとつめの隙間は、どこか薄暗く、そこにはくもの巣が作られていたり虫が這っていたり、どこか暗い部屋のように見えた。たまに屋外の隙間もあるが、やはり同じように暗く、夜であることには変わりないようだった。ちなみに、この夜の隙間をもつ人間は本当にごく稀で、ほとんどの人間はもうひとつの方の隙間に該当する。
 二つ目の隙間は、無だった。暗いとか明るいとかいう感じもなく、そこが空間なのかあるいは本当に何もないのかも全くわからない。正確にいうと、ものがひとつだけあるのだがそれもはっきりとした具象としてはとらえられない。そのあるものとは札のようなものだった。その札は待機中とか停止中とか、要するに「まだ」ということをどうやら表しているみたいなのだが、何がまだなのか、そしてこの隙間はいったい何なのか、夜とこの札とではどちらの方が良いものなのかもわからなかった。
 ただ、二つの隙間にはある傾向が見られた。それは、夜の方の隙間をもっているのは、だいたいが現実の生活の中では著しく制限を強いられている者で、自信がなかったり症状で身動きもできないほど辛そうな患者などは、陰気で薄暗いそんな夜の隙間をもつものが多かったのだ。
 この隙間は何なのだろう。長年続いたその疑問は我孫子善という男に出会ったことによって解決した。浦島は善の隙間を目にしたとき、そこに初めて日光が差しているのが見えたのだ。それは冬の夕暮れどきの傾きかけた少し朱みがかった陽光だったけれど、本物の日光を浴びているようで、それはとても懐かしく、心地よく、古い町並みの建物のあいだからもれているような、そんな日の光だった。そしてそれによって浦島はある答えへとたどり着いた。この隙間は時間を巻き戻そうとしている。いくつかの要素によってその勢いが決まっているみたいだった。でも今まで見た中では、夜から抜け出せていたのは善ただ一人だった。
 これが浦島のもつ瞳線である。
 瞳線とは、このように特定の人間がその人生の中で獲得した独自の、色々な世界に対する解釈の仕方であり、その多くは感覚的なものである場合がほとんどだ。浦島はこの瞳線にいったいどういう意味があるのか、それだけがわからないでいた。

 車を走らせ続けて、やがてひとつめの山道へと入りかけた頃、浦島はある異変に気がついた。曲がりくねった坂道を上り続けていると、辺りに鳥の死骸らしきものがところどころに転がっているのが窓の向こうに見え始めたのだ。最初は一羽、二羽と落ちていて、車にでもぶつかったのかと思ったがどうやら様子が違う。山を上っていくにつれてその数は増えていき、最終的には狸やもぐら、ねずみなどの普通に生活している限りではあまり関わることのないような見たこともない獣の姿までが混じりだしてきた。そして最も不可解なところは、それらのすべてが車道ではなく、路肩にきれいに並ぶように横たわっているということだった。
 いったいどういうことなのだろうこれは。浦島は待避所にいったん車を止め、状況を確認することにした。
 まず車を降りてすぐそばの倒れている野鳥を確認のために拾い上げてみた。するとその野鳥はまだ温かいばかりでなく、なんと目を開けてときどき瞬きまでしているではないか。
 どうやら呼吸もしているようだ。鼓動もちゃんとある。だけどぴくりとも動く様子はない。おそらく自律した運動機能だけを残して、それ以外は自分で体を動かすことができなくなっているのだろう。
 他の何体かにも触ってみたけれど、どうやらどれも同じような状態のようだった。いったい何故このような状態になったのだろう。
 冬のこんな日にわざわざこの山道を越えてくるものはそんなにはいないだろうけれど、できることならば誰かにここに介入してこられることは防ぎたい。浦島は咄嗟にそんなことを思っていた。たぶんあまりよくないことが起きているからだ。
 浦島は心を落ち着かせ、もう一度辺りを見回した。すると前方に一台の黒い車が道路わきに止められているのが見えた。よくない気配が一段と色濃くなった。
 これでは日が暮れるな
 スマートフォンの表示は圏外になっていた。
 空気が午後の日差しの後ろ盾をだんだんと失いつつあった。車の温度計は確か十度はきっていたはずだ。
 休まる暇はないみたいだ。
 浦島はもう一度、見えない何かに向かって意識を立て直した。