日曜日。浦島は国道沿いにあるスターバックスに人を待たせていた。どこで待ち合わせをしても浦島はその相手に対してはいつも必ず五分遅れるようにしていた。先に着いて待っている、ということをなくすためだ。目通りのかなった従臣みたいに、いつも壁ぎわの席に座っていることの多いその相手よりもできるだけ下に自分の位置をとるようにしていた。関係は対等だが心の中ではそうしていた。
 浦島は予定通りにだいたい五分遅れて店内に入った。駐車場はほとんどいっぱいだった。色々な車が並んでいた。でもその相手がハンドルを握る姿は想像ができない。電車やバスに乗って新聞や文庫本を手にしている姿も想像がつかない。いつも遅れてくるため、どういう手段で待ち合わせ場所まで来ているのか浦島は知らなかった。
 その姿はすぐに見つけることができた。店内のほぼ真ん中あたりのテーブルのソファ側に座っていた。いつも隅っこの方に座っていることが多いのに。珍しいこともあるものだと思った。店内には他にスマートフォンやノートパソコンや参考書を広げる様々な客の姿が見えた。
 浦島はホットココアの小さいマグカップを持ってテーブルの向かい側の席に座った。
「なんだ、またここあか」
 その相手は挨拶もなくそう言った。
「お前より、ましだろう」
 そう応えながらココアを少しだけすすった。テーブルの上には浦島と同じサイズのブレンドコーヒーと、紙コップに入った白湯が置いてあった。小さい湯気を立てているのですぐにわかった。湯気の向こうでその女性はほんの微かに笑っていた。浦島はそれを見て、少しだけ緩みかけた緊張をもとに戻した。
 雪村薫。
 年は27歳でドラッグストアの準社員をしている。薬剤師でもなければ売場主任でもない、アルバイトから上がったばかりの周りから見ればまだ中途半端な職位らしい。長い黒髪に今日は眼鏡をかけている。ブランド物のセーターやコートを着ていることもあれば、長いスカートにタイツのときもある。安物のいつ破れてもおかしくないようなただのトレーナーのときもある。
 今日はダークブラウンのシャツとズボンに薄いベージュのヨットパーカーというカジュアルな格好をしていた。化粧はほとんどしていないようだった。それはいつものことだ。
 彼女が身にまとう衣服の出どころなら知っていた。そのほとんどがある女性たちからのもらいものだった。自分で買ったものもあるのだろうが、たぶん今日も誰かのおさがりだ。古い物には色々なものが残る。持ち主が消極的な傾向だった場合はなおさらだ。でも彼女の声や表情や居住まいにはそれに対する様子は感じられない。「好きで着てるからいいんだ」と言うだけだ。
「話があって来たんだよ」
 そう言うと雪村はテーブルの上に一枚のプリンター用紙を置いて見せてきた。そこにはパソコンの文書ソフトで打ち出されたと思われる文字が並んでいた。
 文字には次のように書かれている。

 深庭五界

 感覚器を用いた感覚を五感
 外界や内界に対する潜在的感受性を機能感覚といい、それによる感覚世界を五界と呼ぶ
 五界、イコール精神疾患の世界ということもできる
 五界は五感と違い苦しみが常につきまとう
 精神疾患の完治、イコール五界の閉鎖といってもいい
 五界に代表されるのは幻聴、妄想だ
 しかし、ごく稀に五界をコントロールするものがいる
 コントロールに成功するとその人固有の特徴を持った五界へと変わる
 深庭五界へと移る
 その際、さらにごく稀に神庭へと変わるものもいる
 数万から数百万人に一人といったところだろう
 あるいはもっとかもしれない
 五界が深庭、そして神庭へと転じる瞬間はどうやら閉鎖の瞬間らしい
 五界が閉鎖する瞬間というよりは
 五界にある苦しみが消える瞬間といった方がいいかもしれない
 あるいはその二つはおなじことかもしれない

 用紙に書かれた文字はそこで終わっていた。
「かなり個性的な文章だな、まるで瞳線のことじゃないか」
「去年のごりあてで最後まで残されたあげく、結局落選した。投稿者の名前は吉備真備と書いてある」
「時烈の子なのか」
「吉備真備というユーザー名は検索してもどこにもなかった」
「同じような言い回しの文章が前にもあっただろう」
「そう。私たちはそれで五躙の一つを解釈できたんだ」
「いったい誰なんだ」
「わからない、でもあまりよくない感じがする」
「お前がそう感じるのか?」
「正確に言うとよい感じとよくない感じがある」
「よい感じというのは?」
「陰性の気配は感じない。だから精神疾患やサヴァン症候群的な何かの反動によるものではない。だから自身の能力をその範囲内に完全におさめている」
「よくない感じは」
「この文章を見たとき感じたのは」
 そう言って少し間を置いたあと、雪村は言葉を選ぶように言った。
「お前のノートと同じように見えた」
 しばらくの間、沈黙が続いた。店内に流れる楽器の音色と人の話し声が次に来る言葉を、何とかさえぎろうとしているみたいだった。
「善はまだ生きている。でも抑止の戦略は一人いればいいというメッセージに見えた。それがよくない感じだ」
 雪村の言葉に浦島は、懐かしさと一緒に耐えがたい絶望感を感じた。それを感じるのも自分にできる数少ない残された役目だった。そうだ、もう自分には他にできることがないんだ。彼を思って苦しむこと以外には。
「番号がわからない。わかっているのはおそらく善だけだ」
 雪村はそんなことなどわかっているはずの浦島にあえて言った。まだ方法がないんだと伝えるためだ。
「あの扉が開いたとき、善は三人の同胞を連れていた。その行方もわからない」
「……」
「申し訳ないね。私たちの総力をあげても何もわからないんだ」
 店内の大きなガラス窓からは、けやき並木の向こうにたくさんの車が行き交っているのが見えた。浦島はただ何となくそれをぼーっと見ていた。
「ところで、先週のいつだったかな。雪が降った日があったじゃないか」
 雪村は白湯の入った紙コップを手に取って言った。すでに冷たくなりかけている。
「新聞には月光柱と書かれていたが」
 舞弦市はそんなに遠くない。たぶん月は雲に隠れていた。
「ものすごい陰性の気配があったよ。複数の人間による気配だ。でもそれが一瞬で消失した」
 もし、ドアが開いた場合、人々の心はそのどちらかに属し、それに応じた景色が映る。だけどそれは考えられない。二つ以上が同時に能動状態になることはあれが許さない。
 雪村はそれ以上の言葉を続けるのをやめた。

 どこからともなくクリスマスのメロディーが鳴り始めた。
 お前はいまどこにいるんだ。
 たくさんの思惑が、その失われてしまったどこかの場所に向かって彷徨い始めた。


 くるしいよ

 暗い部屋で鳴いた。
 小さな虫が、その声を聞いた。

 その虫は、前にも同じようなものを見ていた。
 それはまだ幼い少女の手だった。

 びっくりして引き返した先はもとの場所だった。
 後ろの方で、少女は笑った。

 いつかかなうときがくれば
 少女はその小さな魂の返事をきいた。