雪が降っている。
 夜の暗闇に赤や黄色、橙色の光がまんべんなく浮かびながら点滅していた。
 赤い灯火とヘッドライトが、その中心でそれぞれの色の指揮をとるようにして二人を照らしていた。
 線路の向こうにはカタカナで書かれた何かの電飾看板が高々と闇夜を照らしているのが見えた。林の木々の隙間からも「営業中」や「welcome」などと書かれた看板がいくつも点灯していた。それぞれの文字の周りを青や緑の点滅球がにぎやかに踊っているのも見えた。道路沿いに街灯が、まるで誰かの凱旋パレードを彩るみたいに、いつの間にか灯っていた。
 ここはどこだろう。
 まるで、どこか別の世界の古いネオン街にでも迷い込んでしまったみたいだ。
 足元では四方から照らされた光によって影が色んな方向に伸びていた。
 夜子はうずくまって泣いていた。

 その扉は、部屋の扉によく似ていた。見上げるとドアの上でよくわからない動物の子どもがどこか遠くを見ながら笑っていて、長い歳月を経たせいか蝶番からは軋むような音が聞こえた。
 この扉のことはずっと前から知っていた。でも知っているというだけでどこにあるのか、どうすれば見つかるのか、またどうすれば触れるのかもわからなかった。
 幼い頃に一度だけこの扉を見たことがあった。そのときはまだ、恐怖に似たような違和感しか感じなかったから、見ないふりをして通り過ぎた。
 再び現れたそのドアは、子供の頃にはわからなかった映画の風景みたいに、すべてがいま私のものへと変わっているのがわかった。ドアの向こう側で、名前のないそれが言った。
 少しだけ、手を出してもいいですか。
 すでに覚えてはいないうちの、そのどれかだった。
 私は、その声を許した。


 光は三本の矢を落として事象を少しだけ捻じ曲げた。すべての運動と結果と、それに伴う法則やエネルギーといったものはそれらよりもさらに古くて外側にある別な力によって変えられていた。
 辺りでは雪や無数の明かりや騒音が、まるでお囃子のように舞っていた。

 夜子はずっと我慢してきたものが、今ようやく涙となってあふれた。
 すぐ後ろで近江が立っている気配を感じたが、止めようと思っても止めることができなかった。この苦しみの中心人物でもある助けた相手に向かって、夜子はただ堪えようのない感情をぶつけ続けた。誰かに言いたくても言えなかった。自分に向けて穴を掘って埋めていくしかなかった。
 近江は何も言わずにただ黙っていた。

 しばらくすると、踏切の向こう側から男が一人やってきて二人に向かって言った。
「狼と白い狐」
 男は降りたままの遮断機を跨がずにわざわざ持ち上げて踏切の中に入ってきた。そして二人がいる線路の上の方を見上げた後、今度は夜子の方を見て言った。
「白い電魔は初めてだ」
 男は夜子と同じ八十庭の制服を着ていた。ポケットからスマートフォンを取り出し、どこかのサイトへと繋いで音楽を流した。流行りのJ-POPがスピーカーから聞こえてきた。
 すると今まで辺りを包んでいたあの現実離れしたような繁華街の風景が、灯火とヘッドライトを残してまたたく間にどこかへと消え去っていった。
 上空でこちらを見下ろしていたあのけものも、いつの間にかいなくなっていた。
「次の電車が来るかもしれない」
 男はそういうと、スマートフォンをもう一度操作して今度はラジオを流した。
 音質が少し落ち、明日の天気予報が聞こえてきた。世界各地の明日の天気が伝えられているところだった。
「ここは任せて、お前たちは早く戻れ」

 それがその日の夜の、現実が途絶えてから再び戻るまでの、記憶に残っているすべてだった。
 あのときの景色は何だったのだろう。
 あのけものはいったい何だったのだろう。
 夜子はその後、何も考えずに、気を失っていた木葉を背負い、タクシーを使って家まで帰った。
 近江たちがどうなったのかもわからない。
 あの状況がどうなったのかもわからない。
 何も考えられなかったし、何も考えたくなかった。

 すぐ隣で寝息を立てている木葉を見て、夜子は少しだけ心を落ち着かせた。
 窓の外ではおそらく昨日の予報通りの冬晴れが、空一面に広がっていた。