少年が求めていたものは時間だった。
 理不尽を覆せるほどの、腕力と体力と、精神力だった。
 それは暴力でもかまわないとも思った。

 朝、目が覚めてリビングに行くと、サイドボードの上の小さな鉢植えに水がやられていた。それに水をやる者は一人しかいなかった。玄関に行くと、女もののスニーカーとブーツがなくなっており、洗面所からはいくつかの小物が消えていた。そういえば弟の姿も見当たらない。いつもくっついて回る弟が寝床にもリビングにもいなかった。
 あれ?
 目の前が空っぽになった。サイドボードのガラス戸にはひびが入っており、和室の障子はお化け屋敷のように破れ果てていた。これのおかげで少年は、家に友達を呼ぶこともできなかった。
 俺は今日、終わるんだ。どうやら時間は間に合わなかったらしい。少年は思った。
 着ている服が少しだけあたたかくなった。少年はリビングで立ち尽くしたまま失禁していた。
 階段の上からは揺れるようないびきが聞こえていた。

 七年後。
「精神分裂病?」
「はい」
「おじさんがそう言ったの?」
「はい。酔っていたときに、精神分裂病の人間抱えて大変なんだと、喧嘩が始まりました」
「でも君はだいぶよくなったよ」
「そうは思いません」
「おじさん、おばさんのためにもよくやっているじゃないか」
「どうしたら治りますか」
「修平君。無理をしたりあせる必要はない」

 じゃあ、どうすればいいんだよ
 どうすれば、俺は治るんだ
 どうすれば、俺は戻るんだ
 どうすれば、こんな人間を


 地面が震えだし、その振動が手足にも伝わってきた。
 助手席の向こう側に、明るい光が見えていた。
 どこに焦点が合っているのかわからない、ものすごい音がこちらにも向けられて響いてきた。
 下を見ると、ハンドルのところに自分の車と同じエンブレムが見えた。

 やりたくない
 こんなダメな人間はもう、やめたい

 返ってくるはずのない思いを、そこに差し伸ばした。雨の中、踏切の中に取り残された車が、かわいそうに見えたのだろう。
 お前のことをダメだと言うものなどいない。

 何をやってもダメだった
 この先も、きっと一生変わらない

 そう思ったのなら、それが答えになるだけだ。

 怖い
 死ぬのは怖い
 死にたくない
 でも生きれない

 どうして俺は、こんなにダメなんだ

 上空で、雨が凍結温度を迎えようとしていた。
 人の子どもはいつのときも、おなじような手だけを掴む。
 それもまた、おまえたちが出した答えなのだろう。
 雨が降る。



   『空高く 山水に消ゆ 古雀
     いつかかえれる 春をみている』



 傍で歌が奏でられた。
 東方の彼方に、道が降りた。


「ねえ、お母さん、みて」
「まあ、すごい、きれいね」




「おい、なんだあれ」
「うわ、カメラ、はやくカメラでとって」



「なあユウキ、あれなんだ?」
「え、あ、あそこは、たしか」
「神社のあたりだよな、光の柱だ」


 その日の夜、確認された光景は、かなり後までその答えは出されず、人々の心には幼い頃の無垢な夢想感を、科学者たちには夢のような未知への好奇心を湧かせた。
 夜の憧憬。
 誰かが言ったそんな言葉が、翌日の朝刊の紙面を飾った。


 目の前に夜子が立っていた。
 気がつくと車から降り、その後ろ姿のもとへと歩いていた。
 足取りが上手くいかない。ほんの僅かなその場所までを這うようにして歩いた。
 たどり着く前に、その後ろ姿は崩れるように座り込み、そして肩を震わせ始めた。
 雨音に混じって、すすり泣く声が聞こえた。
 足元で少女が泣いている。

 目の前には絶壁のように貨物列車が止まっていた。
 さらにその上には、三本の電柱が不自然にそびえ立っていた。
 そしてその頂に、それはとまっていた。


 向かってくる貨物列車の長く連なったコンテナの前から二番目と三番目に、長さ二十メートルほどの電柱がそれぞれ一本づつ頭から突き刺さった。
 夜子の歌と同時にそれは空から降り注ぎ、配合飼料を積んだコンテナ二つを旋転しながら貫いた。高速で撃ち降ろされたそれは地面深くまでめり込み、突き刺さる瞬間には真っ黒く変色していた。どうやらそれが直接の動力を止めた原因のようだった。的を外したと思われる一本はそのままの色をしていたからだ。
 その一回目の衝撃の直後に、それは降りてきた。
 二回目は衝撃ではなく、風だった。
 風にあたり、近江以外の三人は意識を失った。
 慌ててブレーキを操作していた運転士も意識を失った。

 その三本の電柱の上に、それは器用にとまっていた。
 けもののように見えた。
 鳥のようにも、機械のようにも見えた。

 懐かしい風が吹いていた。
 昔から知っているんだけど、よく思い出せない。
 どこかの洞窟の奥から吹いてくるような風だった。

 けものは片目を閉じていた。
 目が合った。

 風防が呻くように鳴いた。

 ここはどこなんだろう。
 やがて雨が白い粒に変わり始めた。
 二人は線路の上で、ただ静かにそれを受けとめていた。