音も立てずに落ちてくる雨を、まるで月輪を恋しむかのように夜の草木が受け止めていた。夜子は少し息を切らしていた。
「夜子……」
 木葉の足元から髪の先までを撫でまわすようにして見ている夜子に木葉は言った。
「どうして、ここに」
 夜子はそれには答えずに、次に男たちの方を見た。暗くてよく見えない。
「何だ? 誰?」
 尾藤が小さな明かりを夜子の方へあてながら言った。他の二人も同じようにして見ていた。どうやらお互いがお互いの状況をよく理解できていないようだ。
「友だちです」

 と木葉が言った。
 先ほどまでのやり取りがどこかに置き忘れられたみたいに四人は夜子を見ていた。
 まるで妻を質に取られてしまった下作人のような目で、夜子もまた四人を見ていた。
 言葉が出ない。この場の誰もが誰かの言葉を待っているみたいだった。
「心配で来たの? ごめん」
 木葉が言った。
 何だかややこしくなってきた、と男たちがそれを聞いて思った。雨も降ってきたし、言いたいことも言った。明日また頼むとしよう。尾藤がそう考えた、そのとき、
「差し延べられた手で救えるのは、命ではない」
 唐突に近江が言った。暗闇に響いた声を、誰もが聞いた。
「崖の淵で落ちないように手を差し延べてくれるのが、本当の友達だ」
 尾藤はまたポケットに手を入れて煙草を準備し始めた。近江が続ける。
「伸ばした手で助けられるのは、命だけじゃない」
 近江の妄想にあいづちを打つように、尾藤は静かに煙草をくゆらせていた。近江は二人に向かってさらに話を続ける。
「どちらかが犠牲になって助かっても、残った方は苦しみを背負い続ける。二人とも、助からなくてはいけない」
 そう言い終わると、近江はまた暗闇の方を向いて虚空を手で掻き始めた。
「そういうことだから、俺たちのことも助けてくれ。また明日、学校が終わるころに迎えに行ってもいいか」
 そう言うと尾藤は、半分くらいで役割を終えた煙草をまた携帯灰皿にしまった。
「助ける?」
 夜子が聞き返した。何だか様子が少し違う。目の前の男たちはどこか安定感がなくて、ずっと足場を気にしながら仕事をしているペンキ屋みたいに見えた。

 近江が横から言葉を挟んでくる。
「吽形有蓋」
「……?」
 咀嚼するのに難儀する夜子のことを少しだけ見て、
「俺は、治りたいんだ」
 そう言ってまた暗闇の方を向いた。近江はずっと力の半分くらいをどこかに奪われてしまい、それが手元に表されていた。周囲の景色に気を配る余力はないようだった。
 夜子の目から見ても、この不自然さは精神病によるものなんだと理解できた。初めて見る自分以外の明らかなその姿に、自分がやっていることも、もしかしたらおかしいんじゃないかと急に自信がなくなった。
 木葉の方を見ると、木葉は何も言わずに近江の方を見ていた。暗がりの中でもそれは気配でも感じられた。
 木葉は少し変わった。これまでなら面倒ごとには最初から関わろうとしない。そして夜子も木葉のそんなところには本当は頼りがいのようなものを感じていた。夜子自身にもそういうところはあったからだ。それは二人でつくった安全基地みたいだった。
 でも今、病気の発症によってそれは崩れ、木葉の方も少しずつ崩れようとしていた。夜子はそう思った。
 近江は暗闇の中でただ、手を動かしている。
 精神病は、そうなんだ
 まわりもみんな、引きずりおろしてしまうんだ
 また小さく削り取られていくような気がした、そのとき、
 道路の後ろの方から一台の車がゆっくりと近づいてきた。
 その車は左ウインカーを出していた。ここに来るのだろうか、と最初は誰もがそう思ったが、どうやら様子がおかしい。
 遠くに見えていたときからすでにその車はウインカーを出しており、その橙色の光にはまるで意思がこもっていないように見えた。
 案の定、車は不自然な状態のまま空き地を通り過ぎていった。ウインカーはついたままだ。
「何だあれ?」
 尾藤がそう言うと、男たちは道路へ出て走り去っていく車を目で追った。木葉と夜子もつられて道路に出てきた。
 車はしばらくまっすぐに進んだあと、テールランプが強く光って、そのあと消えた。ウインカーも消えた。どこかに停まったようだ。道路の真ん中で止まったのだろうか。

 雨が肌にあたる感触で、かろうじて降っていることがわかる。
 少しだけの沈黙のあと、それまでずっと黙り込んでいた羽沢が初めて口を開いた。
「あそこ、確か踏切じゃ」
 静かにそう言った。
 眼前に広がっていた暗闇が、突然恐怖へと変わった。
 そうだ、あそこは確かに踏切だ。それを知っているものは、その事実に一つの光景を、知らないものは想像でこしらえた光景を、それぞれ関連づけた。
 林の中の道をそれぞれが走り出していた。男たちが暗い道路を駆け出して、夜子と木葉も後を追った。
 ややしばらくして、明かりをすべて消した車の姿がぼんやりと見えてきた。そして、
 キュルルルル、という音が暗闇から響き渡ってきた。エンジンが空回りする音みたいだ。その音はその後も二、三回繰り返された。
 これは何かのトラブルだ。誰もがそう思った。踏切の中で立往生してしまったようだ。
 何度も何度も音は鳴った。

 

 このあたりは閑散線区だ。よほど運が悪くなければ大丈夫だ。あわてる必要はない。
 とりあえず車を動かせないときは、非常ボタンを押せばいい。それで大丈夫なはずだ。あとは他に任せよう。

 それで何事もなく終わる。

 だから、まだ来ないでくれ。

 

 祈るような言葉のあと、背後から何かに押し倒されそうなものを感じた。

 前方からも、それは来ていた。

 両側から、上下からも。

 不気味な感覚だった。そして次に来るものがなんとなくわかった。

 

 紫色の光は、このとき誰も出していなかった。

 

 カンカンカンカン――。踏切の警報機が鳴り響いた。
 真っ暗闇に、容赦なく、音が吐き出されていった。
 全員が思わず足を止めた。
 前方を見ると、赤い光が不気味に動いていた。それはまるで血の通わない何かの生き物みたいに見えた
 現実が遠のいていった。誰もがそれを感じた。少し前に立っていた羽沢がそれを引き戻すかのように言った。
「貨物だ」
 まだはるか遠くに感じる振動音のようなものが知らせるのは、確かに貨物列車だった。
 いつからか足掻くように聞こえていた車のモーター音は消えていた。そして、いつの間にか運転席のドアは大きく開かれていた。
 中に人の気配は感じない。車だけが取り残されていた。
 どこへ行った
 ボタンは押したのか
 運転士は知っているのか

 いまから行っても間に合わない

 体は、動かなかった。
 誰も動かなかった。
 不気味な赤色と甲高い警報音の中、現実と意識がだんだん遠のいていくのだけが感じられた。
 ゆっくりと遮断機が下りていくのが目に映った。
 その動きをきっかけにほんの少しだけ、意識が目の前に広がる暗い景色に戻ったような気がした。
 その景色の中では、誰かが車に乗り込んでバタン、とドアを閉め、ルームライトをつける姿がぼんやりと見えた。
 そして暖色の光が車内に灯った。
 光に浮かんだ運転席に見えたその人影は、近江だった。


 窓に雨の雫がたくさんついていたんだ。
 ワイパーが中途半端な位置で動きを止めていた。
 ハンドルのすぐわきには何かがぶら下がっていた。
 外では警報機がうるさく鳴っていた。
 赤い光が水滴や窓や視界のいくつかに反射され、照らされているのが見えた。
 手を上にあげてルームライトのスイッチを押した。
 明かりがついて、最初に見えたのはぶら下がっているお守りだった。
 ピンク色のおもちゃのようなお守りで「交通安全」と書かれていた。
 顔も知らないお父さんと娘の姿が思い浮かんだ。
 車は軽自動車で、足元にはペダルが三つ、そしてキーシリンダーにかぎが差したままになっていた。
 真ん中と左側のペダルを踏んで、何も考えずにそれを回した。
 乾いた音が鳴るだけだった。
 かぎはまだ少しだけ温かかった。
 同じように何回か回した。
 やっぱり、乾いた音が鳴るだけだった。
 目の前でワイパーが小刻みに揺れていた。
 俺は、何をやっているんだろう

 暗闇の中に四人は立っていた。
 雨はいつからか少しだけ音を立てながら降りだしていた。
 警報音の隙間で雨音が鳴り、遠くから振動音が届いた。
 現実が離れていく。
 だれか、戻してくれ。
 なにをやっているんだ、お前は。
 近江。

 近江!!

「近江いいいいーーーーーっ!!!」



【根源探査、一】

 人は先がわからないから、行動することができる。
 確実だとわかっている未来には、それに応じた動きだけに限定される。
 走行する車に、止められるかもしれないと思って体当たりはしない。
 望みのない学校に願書は書かない。
 よみがえることのない命に、食事はつくらない。
 もし、これらすべてを無視するものがいるなら
 きっと、何かのたがが外れてしまったのだろう。

 でも私は、そんなものが一人もいない世界は
 コンピューターとロボットをただ電気を切らさないようにして放っておけば勝手に動かしてくれるだろうと言った。

 そのために、こわしたんじゃないのか。
 いちばんこわれてはいけない部分をこわしてみたんじゃないのか。

 14


 赤い蕾が目の前にやってきた。
 すぐそばには三人の背中が見えて、それぞれに根を這わせ、すでに赤い花が怪しく咲いていた。

 時が止まっているのだろうか。
 空中に揺れる雨粒を、一粒でも多く受け止めようと、赤い花は風もないのに動いていた。
 さっきまで震えていた手は落ち着いていた。
 このよくわからない赤い花と、私だけが、今この世界でうごいているもののようだった。

 蕾を左手で握りつぶした。
 三つの花が悲鳴をあげたのが聞こえた。
 それを無視して私は通り過ぎた。

 気がついたら私はあそこに立っていた。