教員室の中で女子学生二人がお茶を飲んでいた。書き上げたレポートをドアの前の状差に入れたあと、そのまま中に入り居座ってしまった。二人とも部屋の机の上に書類と何冊かの本が無造作に積み上がっているのがずっと気になって仕方がないようだった。立ち上がって直そうかどうしようかと迷っているときに、須藤教授が部屋に戻ってきた。
「ちょっと人が来るんだ」
 そう言って二人を外に出すと、簡単に部屋を片付け始めた。
 他の大学に講義に行ったり、研究室を構えている教授も多い八十庭の中で、須藤教授は珍しく部活動にも熱心な先生で、学生たちもそんな何かに取り残されたようなもどかしさを感じるこの部屋にだけは抵抗なく入ってくることができた。
 誰を待っているんだろう
 その学生は、結局現れなかった。


 車の中は無言だった。後部座席の左側で窓の外をただじっと眺めていた。
 男の運転する車は古い車で、エンジンやウインカー、それにシフトレバーを動かす度に、あいだにクッションが効いていない疲れ果てたような音が聞こえていた。
 となりのシートに座っていた折原裕樹は、心配そうな目で木葉の横顔を見ていた。
「もうすぐで着くよ」
 振り向かない横顔に向かって言った。

 戸川木葉。
 色白で眼鏡をかけ、一見すると女性的な顔立ちのこの折原裕樹とは、同じ中学の出身だった。
 折原は中学時代は八十庭に合格するだけあって、成績も優秀で他の生徒たちからもよく好かれていた。端正な容姿が泣きだすほど本人には覇気がなく、顔にはいつも笑みがこぼれていて、邪気の感じられないそんな姿に、翳を背負う生徒たちは皆、安全感を持つことができた。
 折原には一人、気になる女子生徒がいた。彼女は無口でどちらかというと暗い印象を与える生徒で、勉強もできなければ運動も苦手だった。授業で突拍子もない解答を出しては周りから笑われる、そんな姿を見て憐れみが募るうちにだんだんと愛着が湧いてきてしまった。いつしか折原は可愛い妹を見るような眼差しをその生徒に向けるようになっていた。
 彼女はいつも仲のいい三人組でいることが多く、登校の際も一緒のようだった。その三人のうちの一人が、戸川木葉だった。木葉はこの頃はまだ少し地味で、クラスでもあまり目立たない生徒だった。でも彼女はよく喋った。比較的明るい感じのもう一人の生徒と喋ることが多く、突拍子もなく平安京を三十五年と答えた可愛い妹は、一人で黙っていることが多かった。普通だったら仲のいい三人組が並んで歩いていて、一人が黙っていたら他の二人はときどき話しかけるべきなのだろうが、木葉はそれはしなかった。
 折原は三人を観察するのが日課になっていた。いつもだいたい真ん中にいる木葉から感じられるのは、本当に何もない雪どけ水のような冷たさだった。仲間意識も対抗意識も、自分がやっているような誰かに対する意識も、何の気配もないようだった。
 雪どけ水は季節が変わっても冷たかった。中学三年の冬、木葉はただ一人の親を病によって失った。辛い毎日は病気の回復と引きかえのはずだった。そう信じていたのに。

 八十庭は学費がとても安かった。何よりもあの難関校に合格すれば、親に希望を与えられると思った。木葉の心はいつも沈んでいた。雪どけ水の下には悲しみが堆積していた。苦しみだらけの世界に抗おうとする目だけが、いつも濁っていた。
 そんなことも知っていた二人は、学校生活という営みを使って何かをしようとしていたけれど、何もできないこともわかっていた。
 気がつくと折原は妹を見ることもなくなっていた。笑みもだんだんと消えた。

 車は寂れた住宅街の路地に止められ、折原はドアを開けて一人だけ静かに降りた。
「ごめん」
 それだけ言って、車は再び動き出した。辺りはすでに薄暗くなっていた。
 気がつくと車は郊外の林の中をゆっくりと進んでいた。運転席の男は結局一言も喋らないまま、暗がりの中に車を止めた。男はハンドルを握ったまま、運転中もときどき低い声で呻くだけだった。
 たすけて
 どこかで子どもの声が聞こえた気がした。
 人はどうして、人なんだろう
 それになれなかったとき、初めて人間は、人にさわることができる。届かないものには、手を伸ばしてしまうからだ。
 ライトが消えると真っ暗になった。
 ドアが開けられ、またライトがついた。
「降りろ」
 唸るような声が冷たい空気と一緒に届いた。