八十庭高校、四年生校舎。講義の合間の休み時間に、一人の女子学生が教室を訪れた。
「荒川君、誰か来てるけど」
 クラスの女子学生に入り口へと促されると、そこにはぽつんと立っている夜子がいた。手には紙包みを持っている。
「なんだ、返しに来たのか?」
「はい」
 どうやら、あの雨の日のときの手拭いを返しに来たようだ。あの後、母に相談した夜子は、洗濯をして返すようにと言われた。小綺麗な紙袋も用意して入れてくれた。今の夜子には、もうこの程度の判断も自らでは行うことができない。
「ありがとう、わざわざ」
 紺次はそう言うと、背を向けて立ち去る夜子にわからないくらいの距離を取って少し後を追った。そして、階段の踊り場で、
「雨田」
 振り向くと、階段の上には紺次が紙袋を持ったままでこちらを見下ろしていた。ジャージの下にはトントンのシャツが見えた。周りには他に誰もいない。
「あ、この学校は部活は遊びみたいなものだから。……幽霊もたくさんいる」
「あ、はい」
 それだけの会話のあと、夜子は再び振り返り階段を降りていった。

 放課後。終業のチャイムが鳴る前に、いくつかの教室ではひと足早く講義が終わり、中からは慌ただしく学生たちが出てくる。
 校舎の隅のトイレから二人の男子学生が走り出してきて、そのうちの一人が廊下に出て帰ろうとしていた紺次とぶつかった。
「あ、ごめん」
 不意を食らった紺次は、尻もちをついて転んでしまった。すると、
「大丈夫ですか」
 一人の男子学生が目の前に立っていて、倒れている紺次を見下ろしながら言った。
 そして手を差し延べてきた。紺次も起き上がろうとしてそれを掴もうとした、その瞬間のことだった。
 何かがおかしい。そう思って手を引っ込めた。そして男から視線を背けた。
 その男子学生は長袖の標準服を着ていて、外見はどうみても普通の高校生だったが、その気配はどこか異様な古みを帯びていた。それは十数年の歳月では到底出せるようなものではなかった。男が言う。
「どうした。顔を上げろよ」
 明らかに声色が変わっていた。
 トイレから駆け出してきた学生とぶつかったとき、ほんの一瞬だけ体がぎこちなくなった。でなければこんな転び方などするはずがない。ぶつかるときにも紺次の視界の隅の方には、こちらをじっと見て立っているこの男の姿が確かに映り込んでいた。
 視線を上げるわけにはいかない。ぎこちなくなっていく体をなんとか制するのが精一杯だった。目を合わさなくても、その視線からはそれが強烈に感じられた。
 そうか、俺がずっとやっていたのはこういうことだったのか
 なんとか起き上がろうとするが、体がうまく動かない。男はさらに言葉をつづけた。
「行き過ぎた枝葉は簡単には剪定できない。挫かれるのはまだ救いがあるからだ」
 周りには誰一人として介入を許さないような、重たい空気が流れていた。
 やがて無言になった二人の間に、割って入るかのように終業のチャイムが鳴り響いた。
「恰好をつけると、また失う」
 それだけを言い残して男が去ると、担任の教授が教室から出てきて起き上がれない紺次に向かって言った。
「荒川君、悪いけど教員室に来てもらえるか」
 おそらく留年の通告だろう。レポートの提出率も試験の点数も出席日数も足りていない。覚悟はしていたけれど、考えを改めて覆そうとしていた矢先でのことだった。

 夕暮れの中を一人で歩いて帰る。
 紺次にはあの男のことが気になって仕方がなかった。景色が目に入らない。最後に言った言葉がどうしても気になっていた。
 あれはおそらく衣香のことだろう。なぜそのことを知っているのか。問いただしたくても何学年なのかもわからない。今まで見たこともない学生だった。

 薄暗い路地を歩いていた。たしかにこれが帰り道のはずだが、暗いのに加えてずっと下を向いて歩いていたせいか意識がぼんやりとしていてそのあたりも不確かだった。
 路地の途中で自動販売機を見つけた。街灯に照らされてそこだけが少し明るく見えた。
 のどがかわいたような気がするから何か買おう。そう思ってその自動販売機に近づこうとすると、前方に人影が見えた。
 その人影は、道路わきの小路から出てきて自動販売機の前で止まった。
 ゴトゴトン
 スチール缶が落下する音がして、自動販売機の前でかがんでいる姿が見えた。どうやら女の子のようだ。
 青白い光に真っ白な服が浮かび上がる。黒いスカートを履いている。黒く見えるけれど本当は紺色なのだろう。少し内股で自動販売機の前で立っていた。手には無糖の缶コーヒーが握られていた。自分のだろうか。それとも誰かのために買ったのだろうか。
 懐かしい感覚が自分の中によみがえってくる。目の前にいるその人影は、紛れもなく衣香だった。

 そこは夜の街灯と自動販売機の明かりだけで、それ以外は民家の明かりもほとんどなく真っ暗だった。
 何を買うのかも忘れていた。
 のどがかわいているのかどうかも忘れていた。
 道路沿いの塀に、街灯に照らされた青い街区表示板が薄っすらと見えたけれど、べつにどうでもよかった。
 その少し上には「グループホームひまわり」という看板が見えた。
 門限は六時だと言った。時計の針は過ぎていた。
 名前は知らなかった。でも制服で学校は知っていた。知っていたことはそれだけだと言った。
 虫の鳴き声が聞こえる。

 少ない言葉でも、それは心の底まで伝っていくような気がした。

 目の前には衣香がいる。

 どこかまだぼんやりとしたままの感覚で、それを受け止めていた。
 紺次は、ずっとどこかにいってしまって触れなくなってしまっていたものに、今ようやく触れたような気がした。
 だけどそんな安心すらも、今はどこかにやってしまいたかった。

 本当はやりたくなかったんだ。
 その言葉が初めて、なにかで慰められたような気がした。