「おはよう、夜子」
「あ、おはよう」
 何気ないあいさつに、少し力が入った。渡り鳥の群れが、空を遠く去って行く。木葉は今日も変わらない。
 私は卒業できるのだろうか
 私は大人になれるのだろうか
 私は生きていけるのだろうか
 自分が消え入りそうになる。
 木葉の横顔。夜子の異変の数々。木葉はもうとっくに気付いているはずだが、変わらないでいてくれる。今の夜子には、ただそれに甘えることしかできなかった。
 木葉がいなければ、おそらく自分は学校には通えない。

 八十庭高等専門学校。
 修業年限5年の主に専門的な学芸を学ぶための高等教育機関だ。
 そこまで成績がよかったわけではなかったが、夜子はこの難関校に地元の中学で、その当時の学年でただ一人合格した。
 夜子はとても思慮深い子供だった。
 例えば、数学は数式を解いていくことで、負荷と時間をかけて、自分の世界を深めていくことを机上で学ばせるものなんだということを理解した。

 窓の外を眺めると、校庭の隅で一仕事終えた桜の木だけが梢を揺らして応える。夜子の何もしないでただ遠くを眺めているその姿に、何かを託している者は少なくなかった。静けさを従えたそんな佇まいを、クラスの上層の者たちは誰も真似できないことを皆知っていたからだ。

 そういう子供であったため、結果として当時いじめや嫌がらせを仕向けてきた生徒達を、夜子はたった一枚の用紙で残らず置き去りにすることができた。

「おはよう、雨田」
「おはよう」
 顔と名前が何となくぐらいにしか分からない男子学生に声を掛けられた。クラスの学生たちは、まだ夜子が発症したことには気付かないようだ。
 席に着く夜子。木葉のいない教室は不安だった。

 一時間目始業の鐘が鳴る。
 いつもの講義。担当の教官は学生に異様なほどS.ラングを勧めてくる。教卓の上には今日も指定の教科書の隣に彼の分厚い解析学入門が置かれている。夜子も数学は嫌いではなかったが、講義は非常に苦手だった。その大半を黒板で学生に解を求める時間に当てられていたからだ。大体、月に一度くらいのペースでそれは回ってくる。
 発病してから論理的に思考する力も落ちていたが、それよりも苦しかったのが、錐体外路症状だ。朝からの憂鬱にはこれもある。そして、今日は夜子が前に立たされる日だ。

「じゃあ、次は雨田さん」

「はい」
 席を立ち、黒板の前へと向かう。解もわかっている。それなのに、予想した通りだ。チョークを持つ手が震える。何故震えるのかわからない。今までこんなことはなかった。抑えようとすればするほど辛くなってくる。錐体外路症状なんて名前すらも知らない。処方された薬のせいなのかもわからない。そもそも、どんな薬なのかもよくわかっていない。今まで全く縁のない世界のことだ。夜子にはまだ何もわからない。でも誰もがこちらを見ている。それは明らかだった。考えもまとまらない。どういう解だっけ。あらゆるものが、自分の安定した土台を奪っていこうとするように思えた。
 あの後、夜子の様子がおかしいと感じた母は、浦島の元を訪れた。その後の診断の結果は軽症統合失調症だった。


 くるしい
 

 人は成長する喜びと衰える苦しみを経験するが、震える手に夜子は自分以外の全学生との隔絶と、この先の長い人生の廃用をどこかで決めてしまった。十代にしてはあまりに異質な苦しみだろうか。
「はい、じゃあこの解答見ていこうか」
 席に戻る夜子。それ以降のやりとりは覚えていない。

 校舎の外れに、白い花が揺れている。


 苦しくて、悲しいのは、まだ誰も知らない地面を踏んだ証なんだ。