「いってきます」
 少し低いこもった声でそう言うと、
「え、何? あ、いってらっしゃい」
 居間の窓際に置いてある鉢植えに水をやりながら、母が夜子の背を見送った。夜子は母と二人暮らしだ。剣道部に入ると聞かされたときも心配だった。夜子は中学ではパソコン部で運動も得意ではなかったからだ。最初は運動部を考えていたのだが、状況をよく知っていた母は文化部を勧めた。
 何とかやっている夜子を見て、安堵するというのが習慣になってしまった。心配はなくはないがいつも通りの後ろ姿をこの日も見送った。本当は強い子だと、そう信じていた。異変には気付かない。
「今日も遅い!」
「ごめん」
 外では、またいつものやり取り。でも今日は少しだけ様子が違う。
「15分待ったよ」
 木葉は不機嫌そうに言う。
 季節は秋。二百十日を過ぎた。並んで歩く二人。
「夜寝る前に布団の中で本読んだり携帯に触るの良くないんだって」
「そうなんだ」
 他愛もないやり取り。どうやら昨日どこかで調べたらしい。そして、交差点に差し掛かる。
 夜子は、渡る必要のない横断歩道を渡ろうとしてしまった。
「こっち、こっち!」
 慌てたのは、何で今日はよく喋るのか。何でどうでもいい場所を間違えるのか。
 そして、何で、下を見てる。
 試合にもほとんど出されたことがない。成績もそれほどよくはない。それは知っている。だけど、歩くときはいつもどこか遠くを見ていた。話しかけても届かないような、手を伸ばしても届かないような。そんな姿に木葉はどこか惹かれていた。
 どうして
 些細なことのはずなのに、涙がこぼれそうになった。