野球夏の甲子園中止に伴う群馬独自の「県高校野球大会」は桐生第一が健大高崎を6対5で破り優勝し幕を閉じました。

 

スポーツ好きが多いリカバリーのメンバーさん、職員は今年も高校野球の話題で盛り上がっていますニコニコ

「群馬って甲子園で2回優勝しているけれど、有名なプロ野球選手といったら誰かな?」
「高橋光成投手(前橋育英)」「正田樹投手(桐生第一)」…

「戦前から全国的に有名だった(群馬)高校野球の名監督は誰?」
「そんな昔のことわからないよう」「聞いた覚えはあるが名前が出てこないなあ」

「正解は桐高(旧制桐生中学)の稲川(東一郎)監督だよ。」
「よくそんな昔のことまで知っているね、さすが~。」

 

 

調べてみましたひらめき電球

稲川東一郎(いながわとういちろう)さん(愛称は「桐生のとうちゃん」)は1905年生まれで桐生高校がまだ旧制桐生中学校の頃に入学。5年生の時には自らの呼びかけで硬式野球部を設立。卒業と同時に同校野球部監督に就任。家業をなげうって、野球一筋に生きる。自宅を野球道場に改築し、テニスボールによる打撃練習、先進的なウエイトトレーニングの導入、バント・盗塁を駆使する戦術を導入。走力のある右打者を左打者に転向させるスイッチヒッターの育成も、全国に先駆けて始めた。県内では後発だった同校野球部を甲子園常連の強豪校に育て上げる。
  春の選抜には12度、夏の選手権大会には14度出場しており選抜では、2度の準優勝(1936年春,1955年春)も経験している。都市対抗野球にも、全桐生を率いて1946年の大会で準優勝。球都桐生の礎を作る。都市対抗野球での采配が認められプロ野球から指導者としてスカウトを受けたが、生涯母校の監督であることを貫いた。
 1967年4月15日、伊勢崎市民球場での公式戦最中に脳出血のため突然倒れ入院。3日後の4月18日にユニフォーム姿のまま死去。享年61。

 

 

 

群馬にはこれほどまでに高校野球に情熱を燃やした監督がいたんですねビックリマーク

教えてくれたメンバーさんに感謝です音譜