先月の大地震から一ヶ月経ちました。大学はもう立入り制限も解かれ、先週から通常どおり通っています。一応落ち着いて本来の作業をすることは出来ていますが、頻繁に発生する余震のたびに実験室の様子を確認しに走り、多少忙しなさも残っています。

この一ヶ月、周囲の人には
「津波の被害を受けた土地へ物資を届けてきた」
とか、
「泥のかき出しボランティアにいってきた」
とか、
東北電力の知人は
「毎日被災地に行って、明かりを灯すべく頑張ってます」
とか、
そういう直接的な支援活動、復旧・復興活動をしている人がたくさんいて、その報告のような、あなたも一緒に!というお誘いのような連絡もたくさん来ました。

そんな中、比較的被害の小さかった仙台に居ながら(被害が小さかったと言っても、暮らしていたアパートは住めなくなり、物資調達などに日々奔走していたわけですが)自分とその本当に身近な部分で精一杯な自分がもどかしく、情けなく、辛く、そして罪悪感も感じながら過ごしていました。


今朝の読売新聞のコラムの中で、911同時多発テロ後、当時のニューヨーク市長が市民にむけて語った言葉が引用されていました。

「普段通りの生活をしても、死者を悼むのを止やめたことにはならない。犠牲を無駄にしないため我々がまずできることは、普段の生活を取り戻すことだ」(ルドルフ・ジュリアーニ元ニューヨーク市長)

自分の通常の生活もまた社会の一部であり、その通常の生活を取り戻すことも、立派な復旧活動だ。
自分が元気に生活していること、ただそれだけのことを喜んでくれる人だっている。
今、足踏みをしてここに留まっている余裕なんてない。
日常を取り戻し、自分自身が前進していかなければならない。

このコラムを読んで、今はそう感じています。

自粛ムードにある日本の現状を踏まえて、そのコラムはこう締めくくっています。
「ーー(前略)ーー 家に閉じこもらず、思い切って外に出かけよう。普段の生活に戻るのが、日本の活力を取り戻す第一歩だ。」

今自分のすべきこと、それは明白です。
でも、いろんな感情がそこへ突き進むのを邪魔していました。
もう無駄な罪悪感なんか捨てて、強く強く突き進んで行きたいと思います。
それが自分のためでもあり、遠回りでも被災者、被災地のためだと信じて。
3月12日
 日の出と共に徐々に明るくなり、午前6時頃起床。8時から配給があるという連絡とともに、地域の消防団長さんの挨拶があった。
「まず、このセンターは指定避難所ではなく、あくまでセンター長さんのご厚意で開けてもらっている。いつまでも居られる訳ではない。この地区の避難所は八木山中学校、小学校。いずれはそちらに移ってもらうことになる。
海岸地域では家も何もかもが流された人も多い。皆さんは一応まだ家がある。皆で力を合わせて頑張ろう」
 午前8時、アルファ米のわかめご飯とみそ汁の配給をいただいた。約20時間ぶりの食事。後輩Hと話し合い、昨夜携帯の光で確認した限りでは、アパートでは生活できそうにないし、大きな余震も頻繁に続いている。少なくとも電気が復旧するまでは避難所に居た方が良いだろうという結論になった。朝の配給をいただいた後、お礼を言ってすぐにセンターを後にした。まずお互いの家に寄り、あるだけの食料をかき集め、当面必要なものを持ち出した。地震後明るくなってから自分のアパートに入って初めてわかったこともあった。室内の壁にも割れているところがあり、余震の度に壁からぼろぼろ破片や粉が落ちてくる。窓枠が歪んだのか、ベランダのドアは開いていて閉めることも出来なくなっている。外壁にもヒビが入っている。一階のガラスがほぼすべて割れている。脇の駐車場は隆起している。どこから出てきたのか、廊下には水たまりができている。
 ラジオで市内の公衆電話は無料で通話できると言っていたが、どこの公衆電話もうんともすんとも言わず、外部と連絡が取れない。八木山中学校へ到着すると、思っていたほど人は居なかった。畳まで貸してくれている。寝るスペースを確保して、お互いの家からかき集めた食料をリストアップした。
食パン 12枚/餅 14個/卵 6個/せんべい 10枚/おかき 3個/乾パン 76枚/チーズ 8枚/羊羹 1本/オレンジ 1個/チョコ 1箱/スナック菓子 1袋/みかん缶詰 1缶/玉こんにゃく缶詰 1缶/さばみそ缶詰 6缶/さば水煮缶詰 1缶/牛乳 500ml/ヨーグルト 2個/ウコンの力 2本/黒酢飲料 200ml/飲料水 4.5L
この時点では避難所で食料をもらえるとは考えておらず、手持ちの食料でどの程度過ごせるか計算し、少しずつ消費していくことにした。しかしそんなに長く食いつなぐことはできないし、避難所へ向かう途中で生協に人が並んでいるのを見ていたので、周辺の情報収集も兼ねて何か食料品を買い出しにいくことにした。
 生協には数百人並んでいたと思う。この生協の対応はすばらしかった。店長らしき人が並んでいる客に対し、拡声器で説明している。その内容が、
・一人一袋分好きな物を詰めて構わない(ただしお菓子類しかないと思ってほしい)
・お代は今日はもらわない
・後日商品のバーコードを持ってきて清算してくれれば良い。各自の判断に任せる
というもの。あの状況で、生協店員の自宅も大変なことになっていただろうに、なんと冷静で人道的な対応だろうか。感動して涙が出そうだった。いろいろ生活が立て直ったら必ず支払いに行くし、それ以上の恩を返したい。心からそう思う。1時間弱並んで、二人で二袋分のお菓子をいただいた。並んでいる間、生協向かいの八木山小学校に給水車が来ているという情報を耳にした。小学校も避難所に指定されているので、八木山の知り合いもいるかもしれないと思い、見に行くことにした。給水車には長蛇の列が出来ていて、数時間待ちと言っていた。でもそもそも水を汲む容器を持っていないので並ぶに並べない。小学校内に入っても知り合いを見つけることはできなかった。
 中学校に戻ると、避難者の数も少し増えていた。やがてこの避難所の世話役の方から仮設トイレ設置作業の依頼があり、避難所にいた若者たちで4基の仮設トイレを設置した。こういう経験も初めてだ。トイレを組み立てながら、お互いどこから来たとか、自宅がどういう状態だとか、話をした。自分の家は八木山内でもまだ被害の程度が小さかったほうだったようだ。
 午後3時頃、親戚の家のことも気になっていたので、歩いて様子を見に行くことにした。水とチョコを持ち、歩いて20分ほどで到着。途中の道路は隆起していていたり陥没している箇所があった。親戚は皆無事だったとのことでほっとする。家自体にも大した被害はなかったそう。地域、場所に寄って被害の程度がかなり違うようだった。いとこの旦那さんの車で携帯を充電させてもらったが、全く電波が入らない。一人くらいならしばらく居ても構わないと言われたが、後輩を一人避難所に残すことも出来ないし、早々に避難所へ戻った。
 再び避難所に戻ると、避難者はさらに増えていた。夕方、アルファ米で作ったわかめご飯のおにぎりをひとつ配給してもらえた。とても温かかった。このおにぎりと生協でもらってきたお菓子、早めに消費しないと悪くなるであろうヨーグルトをこの日の夕食にした。気づけば昼食を摂っていなかったようで、この日は朝、夜の二食だった。ヨーグルトは食べ終わったら容器に水を入れ、スプーンで内面に残ったヨーグルトを洗って、その水も飲んだ。寝不足と緊張が続いたことで疲労感も大きかった。電気もまだ復旧していないので日没後はストーブとろうそくの明かりのみ。ふたりで「クリスマスパーティーみたいだ」などと言いながら気を紛らし、早々と眠りについた。夜中の間も大きな余震が三回くらいあった。でも大きめの余震にももう慣れていた。
3月11日
 14時45分頃、15時からのI先生のセミナー直前、三階の居室で今年度で卒業する後輩Hさんへの寄せ書きを書こうと頭の中で作文して色紙にボールペンを走らせようとした瞬間、突然下から突き上げるような揺れが始まった。二日前にも震度5程度の大きな地震があったので、万が一に備えてとっさに出入り口のドアを開けに走った。しかし揺れは激しさを増し、Uさんの「出ろ出ろ!」という言葉を聞いて部屋にいた人は皆廊下に飛び出した。立っていることは不可能。皆廊下で姿勢を低くして揺れが収まるのを待っていた。揺れは収まる気配がなく、目の前で本棚やパーティションが倒れていく。壁からもコンクリートの破片が落ちてくる。怖かった。揺れは強弱を繰り返しながら数分間続いただろうか。体に揺れを感じなくなるのを待って、上着だけを持って屋外に退避した。避難訓練通り、一時退避場所になっている構内の中央広場へ向かうが、向かっている途中にもまた揺れを感じる。屋外で揺れを感じるような地震は初めてだった。
 当時二階の実験室に一人でいたはずのAさんが無事か気になっていたが、既に待避所に到着していてとりあえずほっとする。建物から続々と人が出てきて、間もなくこの日研究室に来ていた人は皆無事であることが確認された。携帯電話は不通なので、とにかく実家に「無事」とだけメールを送っておいた。しばらく大学の災害本部から指示が出るまでその場に待機するも、雪が降り始め、寒さで皆ガタガタと震え始める。留学生Pさんの不安そうな表情が忘れられない。その他日本人は寒さも相まって皆テンションが高かった。大きな余震も続く。大学の建物が揺れているのが目視ではっきりわかる。煙も出始めた。遠くの方で小さな爆発音も聞こえる。このあたりから、徐々にこの地震の非常さが実感として湧いてきた。
 やがて本部からの指示で、必要最低限のものだけ室内に取りに行けることになった。しかし原則立ち入り禁止とのこと。その後は各自家路に着く。本部からの情報で八木山橋は不通になっているらしく、八木山のアパートへ戻るには霊屋橋か愛宕大橋を使うしかない。後輩Hさんも八木山に住んでおり、車も持っているので乗せてもらって二人で帰ることにした。道中、ラジオで被害状況など、様々な情報が入ってくる。マグニチュードが8.7だの8.8に訂正されただの、チリ地震の百何十倍の規模だの、宮城県数百万戸で停電だの、津波で町が消えただの、良く理解できなかった。やがて日没。車のライト以外、全く光のない街が不気味だった。
 渋滞で車も進まず、アパートの状況も気になる。17時過ぎに大学を出て、八木山に着いたのが21時。まずは後輩Hのアパートに向かう。明かりはないので携帯電話のディスプレイの光を頼りに階段を上り部屋へ向かうと、部屋のドアからは水が流れ出ている。もう二人で笑うしかなかった。ドアを開けると玄関に給湯器のタンクが倒れて通路を塞いでいた。わずかな隙間をくぐって室内に入るともうぐちゃぐちゃな状態。このとき、とりあえず今夜は避難所で寝ることを決めた。とにかく布団だけを取り出して次は自分のアパートへ。うちはうちで廊下にヒビが入っていてコンクリートの破片が転がっている。自分の部屋に入るとやはり中はぐちゃぐちゃ。とにかく布団だけと思っても足の踏み場もなく布団までたどり着けない。そうこうしていると大きな余震が来て一時外へ出て、収まってからまた入り、そうするとまた余震が来て...の繰り返し。
 布団を後輩Hの車に押し込み、八木山市民センターが避難所になっているらしいという情報があったので向かうことにする。センターには非常電源か自家発電かわからないが、うっすら明かりが灯っていて、それを見ただけでほっとした。既に百名以上の人が避難していた。名簿に名前と住所、電話番号を書いて体育館に場所を取る。そんな最中にも大きな余震は続く。携帯のバッテリー残量も少なく、実家に「避難所着。でんちきれそう」とだけ送って完全にバッテリーが切れた。二人とも思い返すと昼食以来飲まず食わずだった。でも食欲もなく、横になるといつの間にか寝ていた。余震の度に目が覚め、熟睡はできなかった。