言葉について
言葉は難しい。
言葉は相手へのメッセージである。
相手の心に響かせるためには、相手の気持ちを理解しなければならない。
しかし、相手の気持ちを形成する要素、すなわち育ってきた環境や家族構成、その時の体調、価値観等をすべて知るのは不可能である。
そこで、極力、相手と自分の共通項を探す。
自分の経験則や価値基準を拠り所として、相手との共通点を見つける。
傍で見ていたり行動を共にすることが出来る相手ならば、
普段から相手を良く見ておく。
さらに、相手が行き詰まった時、心の痛みを共有できるよう、
自らも様々な経験を積んでおく。
相手が心を開いてくれた時、多くの言葉を語る必要はない。
言葉は相手に伝えるためのものである。
決して量や語彙だけが決め手ではないのだ。
私は“言葉が出てこない”、“言葉に出来ない”という瞬間が、
人間関係で一番美しいと感じている。
「心を込めて花束を」(サザンオールスターズ)では、結婚の決まった息子が両親に、
“もしも涙が溢れそうなら、ごめんよ何も言えなくて”と唄う。
「北風」(槇原敬之)では、好きな女性を前にして
“かっこ悪いくらい、何も話せなくなるよ”と唄う。
「なごり雪」(イルカ)では、上京する恋人を見送る列車で、
“君の唇がさようならと動くことが、恐くて下を向いてた”と唄う。
「言葉にできない」(小田和正)では、まさに出会えた喜びを
「嬉しくて、嬉しくて、言葉にできない」と唄う。
いずれも言葉がなくても、もしくは言葉がある以上に、
相手に対する思いが十分伝わっている。
実はあまり言いたくなかったのだが、私は言葉をうまく扱えない時がある。
よく、ばかにされたりもする。
笑えるネタとして振舞う方が性に合っているし、
人を傷つけるよりは傷つけられた方が全然いいから気にしない事にしているが、
この辛さは当人しか分からない。
私は弱いので、幼い時からこれを障害と感じてきた。
ある時母に「辛い」と漏らしたことがあった。
その時母は「そんな風に産んでごめん」と言った。
それ以来私はこの事を口にするのをやめた。
言葉が少なくても、ぎこちなくても、出来ることはある。
雄弁な者以上に、メッセージを伝えることだって出来る。
「おめでとう」、「ありがとう」、「ごめん」の一言で十分な時がある。
この至福の瞬間を経験するためには、逃げていてはダメだ。
言葉は本当に難しく、時に人を悩ませる。
でもだからこそ、人生の楽しみが言葉には凝縮されているように思えてならない。
言葉次第で人生はより豊かになると、私は信じている。人を信じる
人間は誰だってとても普通だが、出会いはどれだって特別である。
前回も書いたとおり、人間の能力にはほとんど差がないと私は思う。
しかし、出会いはいつだって特別である。
運命的な出会いで、人は大きく成長し、価値観も変わる。
出会いを大切にして、人をもっと好きになろう。
人を愛することで人に愛され、人から学ぼうとすることで人から学ばれる存在になる。
そう、一期一会の精神を大切にすることは、自らの可能性を高めることに繋がるのだ。
人は誰しも試練に立ち向かう時がある。
一人で頑張ろうと思うと、どうしても限界がある。
そんな時、弱い私は自分を応援してくれる大切な人を思い出す。
自分が試練を乗り越え、成功を手にすることを祈ってくれる人の顔を思い浮かべる。
そして、その人の自分への想いを自分自身の力に変える。
その人の祝福の笑顔が見たいと思って、精一杯の努力をする。
これまでの人生、私は周囲の期待通りの成果を収めてこなかったかもしれない。
でも間違いなく人との出会いにおいては、かけがいのない人に巡り合えた。
ならば、せめてもの感謝の気持ちで、私も試練に立ち向かう人を応援したい。
恥ずかしさなど捨てて、私はあなたの成功を祈り、成功を心から祝福したいと伝えたい。
たとえ失敗しても、決して責めたり、嘆いたりしない。
なぜなら、全力で頑張っていることを知っているから。
そして、たとえ今失敗したとしても、これから先、可能性が限りなく広がっていることを知っているから。
人は支えあって生きている。
自分ひとりの限界を知り、人の力を借りてもっと自分を成長させよう。
そして今度は精一杯の愛で、人の成長を手助けしよう。
自分を知る
前回、相手の本音を受け入れることが、リ・ボーンの第一歩と書いたが、
その前にやるべきことがある。
それは、「自分を知る」ことだ。
自分のことは自分が良く分かっていると思いがちだが、
実はきちんと理解していない。
私が言う理解というのは、“社会における自分”、存在意義の意味だ。
人は社会の中で生き、社会に生かされている。
よって、社会における自分は常に意識しなければならない。
そして弱い自分、出来ない自分と向き合わなければならない。
人はとかく自分がかわいくて、認められるに値する存在だと思っている。
今、評価されていないとしたら、評価する側、環境のせいにしがちである。
でも、そんなに自分ってすごいのだろうか?
自信を持つことは大切だが、それと過大評価することは違う。
まず、気づかなくてはいけないのは、自分の評価は他人がするものだということ。
自分がいくら頑張っていると思っても、他人が評価しなければその程度なのである。
自己満足に過ぎないのである。
(念の為であるが、「人の評価を気にしよう」ということではない。
自分の評価軸だけで考えてはいけないということ、
人を幸せにするためには、人に認められることを考えなければいけない、
ということを言いたい。)
若いうちは得てして自己評価が高い。
かくいう私も、それなりに優秀な部類に入るではないかと錯覚していた。
でもここ数年で、大きな誤りであることに気づいた。
よって、今では相当、自己評価は低い。
ここに至るには、周りからの期待を込めたダメ出しがあったからである。
そこでようやく自分が周りから必要とされる人間に
まだなっていないことに気づいたのである。
(ここで前回のテーマ、「本音を受け入れる」の重要性があり、
これを感じるからこそ、リボーンしたいのである。)
これは結構、辛いことである。
でもまだ人生は長いし、今それを知ることができて良かったと思う。
一部の例外を除き、人間の能力にはほとんど差がないと私は思う。
だとしたら成功する者としない物の差は何だろうか。
それは、成長に向かって努力し続けられるかどうかの心の持ち方である。
それには、まず今の自分の至らなさを知ることである。
日本人が古から大切にしてきた「利他の心」の道徳観に私は共感する。
他人を幸せにすることが、自分を幸せにする唯一の方法だとする価値感であり、
私もこの価値観を大切にしていきたい。
そのためには、己を知り、なりたい自分を思い描いて、
それに向かって日々努力することに尽きるのである。
本音を受け入れる
さっき、風呂で前回のテーマを思い出していたら、
本音で語ることより、相手の本音を受け入れることの方が
はるかに難しく、重要ではないかと気が付いた。
相手が自分に対して言ってくれる助言や批判を
素直に受け止めることはなかなか難しい。
私を良く知る人は、私を頑固だという。
確かに、私は嫌いな人に対して心を閉ざしてしまいがちである。
でも、自分の成長にもっと貪欲であれば、
人の批判に耳を傾け、時には反省しなければならない。
どうしたら、批判された時に冷静でいられるのだろうか。
どうしたら、自分から進んで批判を求めていけるのだろうか。
これは前回の本音で語る以上に難しいテーマだと思う。
しかし、これが出来てこそ、リ・ボーンの一歩が踏み出せるのだと思う。
本音で語ろう
最近、同期や後輩と飲む機会が多い。
仲間の価値観やモチベーションを聞くと、
人それぞれいろいろな考えがあって、楽しい。
飲み会では、メンバーに心をオープンにして
本音で語って欲しいと思う。
では、人はどのような時に心を開くのか。
相手への信頼感を前提に、尊敬の念などもある時かなと思う。
となると当然、日頃からの付き合いが大事になる。
そして、そもそも自分から本音で語ることが大事。
さて、胸に手を当てて考える。自分は本音で話せているか。
相手の気持ちを思うばかり、その場の空気を読み過ぎるあまり、
本音を飲み込んでしまうことが、多々ある。
何故だろう、嫌われるのが怖いからだろうか。
あまり思いたくないが、自分がかわいいからだろうか。。。
これまでの人生で培われた無意識の思考回路かもしれない。
そして、この性格でも穏やかで平和な時間が過ごせるかもしれない。
でも恐れず本音を言うことが出来れば、違う世界が開ける気がするのだ。
だから、自分を少しずつ変えたい。
人が楽しく話し、その人が自分と話す中で新たな発見があって、
成長できたと言ってくれたら、それが一番嬉しい。
だとしたら、やはり少しずつ本音でぶつかってみよう!
それが相手への本当の優しさだと思うし。
そして会わない時間は、常に成長しなければならない。
本音でぶつかっても、その内容が低次元であれば、
そもそも意味がないからね(笑)。
人と接することで、悲しみを半分に、喜びを2倍にしてもらっている。
だとしたら、自分も支えてくれる人に対して恩返しをしなければ。
それには今から少しずつ、本音で語ってみたいと思う。
