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年末になりテレビは特番が増えてきました。私は8歳の時から報道に引きつけられ、テレビと言えばアニメでもドラマでもバラエティでも音楽番組でもなく報道番組でした。好きな芸能人は?と聞かれても芸能人が分からず、テレビに出てる人→私がテレビでよく見てる人→ニュースキャスターという私の頭の中の図式で好きなニュースキャスターを答えて誰それ?ってことがよくありました。

そんな私にとっての年末はTBSが毎年放送している「報道の日」。今年は6時間半スペシャルでした。

今年のテーマはテレビ報道70年を振り返る。
Windows95の話はとても懐かしかった。「この音、何の音か分かります?」と流れるピーゴロピーゴロのモデム音。インターネットは当初、電話回線を使っていたので、ネットしている間は家の電話が使えない。数分モデム音が流れるのを待ったあげく接続に失敗しました、なんてことも数しれず。YouTubeを見ようものならカクカクでまるで人の動きがパントマイム。YouTubeってほんとに流行るの?って思ったなんて話、今じゃ信じられないよね。そんな話を自著に書いたのでテレビで紹介されたのがすごく嬉しかった。はじめて行ったネットカフェはキャナルシティ。30分五百円+ワンドリンク500円で1000円。まずはモデムに接続。ピーゴロピーゴロ、切断されましたを繰り返し、接続されましたまで10分。ようやくゆっくりゆっくりYahooの検索エンジンのページが表示されるまでに5分。検索したいワードを入力して検索画面が出るまでに5分。それから観たいホームページに飛んだときには残り5分。コーヒーを手に店員が延長いかがですか?ってな具合。懐かしいね。

特に印象に残ったのは和歌山カレー事件の過熱報道。確かに林眞須美死刑囚の罪は重い。しかし、連日メディアスクラムを組み、報道陣が自宅に居座り、飲み食いしたゴミをポイ捨てするは、家の郵便ポストをあさるはやりたい放題。何度も強調するけど、確かに林眞須美死刑囚の罪は許されるものではない。だけど、その家族、特に当時思春期の子どももいた。脚立を使って二階の子ども部屋を覗こうとするメディアも。それにいくら容疑者と言っても家の郵便受けを漁るなんてそれはアウト。

私は事件報道の取材はしたこと無いけど、それでも記者経験があるので報道の腕章をつけて人にマイクを向ける経験もした。私の場合はイベント取材だったので楽しいことが多かったけどそれでもマイクを向けるからには十分配慮してほんとに心して取材にあたった。

確かに物事は現場に行かなきゃ分からないことがある。だけど踏み越えてはいけないラインが必ずある。

テレビ、新聞などをオールドメディア、マスゴミなどという言葉も最近はよく耳にする。SNSの発達で、SNSとオールドメディアが対立軸として語られることがある。ほんとにそうなのか?

今やスマホなどで一億総リポーターにも一億総コメンテーターにもなりうる。それは報道の仕事についてなくてもニュースに庶民感覚で物申せる、事故や事件の真相を暴く貴重な資料にもなったりしていい一面もあるけど、その一方で飛び交うデマ、行き過ぎた動画撮影。

先日の徳力のマックでの殺傷事件でも明らかに刺した犯人が悪いのに、塾帰りにマックに寄った中学生も悪い!などの言葉がSNSにはあった。コロナ禍で特に顕著だったけど今もインフル流行のニュースに、マスクやワクチン接種しない非常識者が!とか、逆に、マスク、ワクチン信仰の、など、ホントなら任意のはずのマスク、ワクチンに関して賛成派と反対派がネットで罵声を浴びせ合う。

今や一人一人誰もが発信者になれる状況なのでメディアの過熱報道も決して他人事ではない。指先一つのコメントで相手の命を奪うこともできてしまう危うさをしっかり認識し、一人一人がリテラシーをしっかり持たないといけないと私自身自戒を込めて思う。

リテラシーは持ちながらもおかしいことにはそれはおかしいんじゃないかな?としっかり言う。責めるとか断罪するとかではなく、持っている違和感を素直に口にする。それが大事なんじゃないかな。

私自身、8歳から毎日ニュースを見続けてきたものとして、市民記者として市民目線でニュース記事を書いていたものとして世の中をしっかりとウォッチして、喋り手の端くれとしてしっかり言葉にしていきたい。自称「ニュースのソムリエ」にはそんな思いもあります。ラジオやポッドキャストなどでこれからも語っていきたい。

#報道の日2024 #ニュースのソムリエ #メディアリテラシー #テレビ報道70年