24年の節目の日を迎えた昨日。
私が「ヒロシマ」を語るのもそうなんだけど、体験はしていないけど、聞いた話かもしれないけど、聞いたことを語り継ぐこともできること。

私は2011年の時に1.17の集いに参加しました。
阪神・淡路大震災を体験はしていないけど、だからこそ、発生日時の1月17日5:46にその場に立つことでその場の空気だったり、そしてそこで見聞きすることもあり、それを私の地元北九州に持って帰って語っていく。

先日の講演で、演奏する人間のできることと思い、「しあわせ運べるように」を演奏しました。いつか、神戸の地でこの歌をリコーダー演奏したい。

私がつどいに参加して2ヶ月後、東北で大きな震災が起きた。あの時、東北が大変な時に、もう16年も前のことをまだ1.17と言ってるのか、と、阪神・淡路大震災を経験した方への厳しい声もあったそうな。でも、何十年たとうと悲しみがなくなるわけじゃないし、1.17を経験したからこそ3.11に寄り添うことが出来るかもしれないし、、、

1.17から来年は25年。四半世紀になる。
一見、神戸の街は震災があったことが信じられないくらい賑やかだ。
でも、悲しみの上に今の神戸があることを忘れちゃいけない。
歴史上の一出来事にすることなく、
1.17を胸に刻み、防災減災への思いを新たにし、今、改めて、あえて、神戸復興の歌を歌いたい。がんばろう神戸、と、改めて言いたい。

それから、私は今、ラジオの喋り手の端くれだけど、それもまた、この阪神・淡路大震災がきっかけで私はラジオを聞くようになり、リコーダーと並んで私の生きる支えになった。

あの日、何気なく家族がつけてたラジオからこんなアナウンスが流れていた。

「給水車は〜時から〜公園。
スーパー〜は、明日10時から営業再開。」

北九州に住む私には神戸の細かい地名に全くピンとはこなかったけど、そこまで細かい、ローカルな生活情報を流してることに感銘を受け、ラジオの力をそこで初めて知った。
引きこもりど真ん中の時に、ラジオにどれだけ助けられたか。そして今、喋りての端くれのような事ができるようになったわけだけど、その出会いはあの日に始まっている。

希望の灯に刻まれた言葉。
震災が奪ったものだけでなく、そこには、
震災が残してくれたもの、と刻まれている。

私は思わず立ちつくした。

震災が残してくれたものを胸に、
来年、またその翌年と、つないでいく。