赤ちゃん、お母さん方と接していると、
やっぱり「ママになりたい」思いが強くなって、
ほんわかいやされる一方で色々心が揺さぶられる。

でも、街中で赤ちゃん連れに出会うよりは
「みんなのお母さんだから」なんて
言うことができるだけまだいいのかもね。

現実的に子供を育てられないことは分かっているけど、
やっぱり人間だもの、気持ちの中では色々思っちゃうよね。
我が子がいたら、、、もしママになることができてたら、、、
子供産むことができていたなら、、、、
と考えても仕方のないことをいろいろ思ったり。
適合手術を受けてないので生物学的には子供をもうけることが
できる身体であることも色々考えてしまう。

それは、結局、どっかで男性として生きたいんじゃない?
とかそんなことじゃなくて。
私は心底、完全に女性として生きたいと思ってる。
何度も自分の身体を憎んだ。
それは今も頭をかすめる。
女性と言いながら何一つ女性らしい身体はなく、
生理が来るわけでもなく、悲しいかな、
生物学的には男性の身体。
男性の身体の場合は、女性の生理のように、
生理痛とかないからいいじゃないか、何が不満だ、と
言われるけど、心底女性として生きたい身にとって、
男性の身体であることを嫌でもつきつけられるのは、
物凄く苦しい。銃を突き付けられ、降伏しろとでも
言われてるみたいに。
そのたびに自分の身体を呪いたくなる。
その一方で、女性としての信号も同時に私の身体から
発せられる。正直言って、勘弁して!って感じです。

その一方で、授かった身体を呪うことは
母を苦しめることになる。
世の中には授かりたくても子供が授からなくて
悩んでいる方がいっぱいいるのに、
適合手術をしていないのであれば、
もしかしたら私さえ我慢すれば、戸籍上も結婚できるし、
子供をもうけることもできるのかもしれない。

家族の形って本当にその人にしか分からない。

実際、我が子を出産した「父親」。
精子をもち、普通に性交渉をして子供をもうけた
「母親」がいる。
傍目からは、出産した側が「母親」に見えても、
当人にとっては出産した「父親」なのである。

そんなことを思うとますます迷宮に迷い込んでしまうのだけど、
ただ言えることは、自分の身体を呪うことは
自分はもちろん、母親を傷つけてしまうと言うこと。

どんなに人が、男性の身体じゃないか、と揶揄しようと、
私が女性として生きると決めたのであれば、胸張って、
女性として生きる。たとえ理屈に合わなくても。
LGBTをぬきにしても、見えない障害やらなんやら
経済的なこともあり、我が子を育てていくことは難しい。

それ以上に私は「ママになりたかった」。

私もそれなりに年を重ね、もし自分に子どもがいたなら、
と思わないでもないけど、それ以上にやっぱり私は
ママになりたい、子供が欲しい、ではなく、
子供を産みたい、気持ちの方が強い。

「男性の身体があるんだったら、
我が子を持てるかもしれないじゃないか。
子供大好きなんでしょ?」

そう言われたことがあとでじわじわ来て、
苦しくて、切なくて、わんわん泣いたわ。

男性の身体があることが憎い。
所詮、お前も男なんだ、世のエッチな男と
何ら変わらないと揶揄されてたせいもあって、
これ以上ないくらい自分の身体を呪った。

その一方で、にっくきこの身体だけど、
子供を産めない以上、子供を持てる方法は
「父親として」ということになり、男性の身体なら、
それが物理的には可能と言う現実。
それをかなぶり捨てて自分の身体を呪うことは、
不妊に悩んでる方に失礼なのか、
罪の意識にばたぐるった。

それでも私は、子供を持てるかもしれないじゃないか、
とか、セックスが尊く、喜びのあるものだと説かれても、
私はやはり「女性」でありたいのだ。

我がままかもしれないけど、心底、私は女性として
生きたいのだ。我慢して夫のところに記入して婚姻届が
受理されたとしても、それは自分を偽っての結婚でしかない。

子育てしてない人には分からない。
たとえそう言われたとしても、私はママになれない以上、
私はやはり「みんなのお母さん」として生きていく。
「お母さん」にしては肝っ玉と言えるほど腹の据わってない、
頼りないママですが、「みんなのお母さん」であり続けたい。
女性として、素敵な女性に巡り合って、お嫁に行ける日
だけは夢見てます笑。