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happy cafe(仮)

自分のくつろげるカフェ的な場所にしたいなぁ・・・

久し振りにブログを書くような気がします。

 

ちょっと精神的に病む内容になるかもしれないし、

「自死」「死」などを含む内容になっているので、受け入れない方は、ここでリターンして下さい。

 

また、あるV系バンドを好きな人には不愉快な内容になるかもしれません。

(先月DIRと対バンした某バンド関係が好きな人はこの先読まないで下さい。)

 

(いや、V系好きな人には読んでほしくないかな。DIRをV系としてとらえている人とかも・・・。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このブログ記事の少し前にリプログした、SiMのMAHさんのブログ記事読んで、色々考えさせられた。

 

 

生きたくても生きられない人もいる、限られた、何物にも代えられない命だから、大切に生きないといけない、それはわかっているつもりです。

 

けれど、自ら死を選ぶ気持ち、死にたいという気持ちは痛いほどわかる。

 

自分なんか生きている価値なんかないというか、最近では、本来生きるべき人が天へ旅立っていって、自分みたいなどうしようもない人間が死に遅れている、そう思っています。

 

 

 

自分なんか生きていても仕方ない、死んでしまいたい、と思うことは良くあるのに、踏み切れなかったのは、私が臆病だから・・・・・

 

 

 

 

今は、本来生きるべき人が天へ旅立っていって、自分みたいなどうしようもない人間が死にきれていない、と思う一方で、自分が死ねば、自分の身の回りにいるほんの一握りの人達を悲しませると、いうところで、少なくとも自死は踏みとどまることはできている。

 

 

 

 

 

 

 

でも、

 

 

 

 

 

 

 

 

体の病気は、病院に行って診察を受け、検査すればわかる。

健診で異常が見つかったり、何か不調があって病院を受診する。

心の問題も、自分自身で、あるいはまわりの人から「少し様子が違う」と心療内科や精神科を受診することもあるかもしれない。

 

 

 

 

 

けれど、自分で自分を守れるギリギリのラインを大きく超えて、心がバラバラに崩壊しているような時って、精神の限界を超えてしまっている時って、どうやって気付けるのだろう?

 

まわりも、自分自身も。

 

 

 

一見、いつもと変わらない様子でも、いや、笑っているように見えたとしても、精神はもう限界をとっくに超えていて、バラバラに崩れてしまっていて、生きていることなんてもうとてもできない、そんな状態かもしれない。

 

 

 

 

 

正直、私自身も、今はかろうじて踏みとどまれているけれど、先のことはわからない。

 

 

 

 

 

 

 

「人は一人では生きられない」

人は誰かの助けを借りて生きているし、生きている中で何らかの形で誰かの助けになっている。食べ物(動植物の命)とか自然の恩恵の元に「生かされている」し、物理的に一人で生きていることはありえない。

 

 

けれど、これって精神的な意味でもそうなんじゃないかと思う。

ある出来事が引き金になって、あるいは、これといった大きなきっかけはなかったとしても、

ある日突然、自分がたった一人、真っ黒な暗闇の中に放り込まれてしまったら・・・・・まわりに誰の姿も見えず、何の景色も見えず、誰の声も聴こえず、雑音さえも聴こえず・・・・・ただ一人、真っ暗な闇の中に漂ってる・・・・・

そんな状態になってしまったら

 

 

 

 

 

 

私はおそらく自ら死を選ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

生きていたって仕方ない人間どころか、決して取り戻すことは出来ない、そして永遠に消えることはない、大きな罪を背負っているから。

こんな自分なんかさっさと地獄に堕ちてしまえばいいのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本来歩むべきだった正しい道を進むことが出来ず、とある洗脳に堕ちてしまった、自分自身で作りだした永遠に消えない罪。

 

 

 

正しい道を進んでいれば、「ライブという形で」出逢えたであろうアーティストも多い。

音楽(趣味)にしても、それ以外の日常的なことにしても、将来的な目標も、洗脳によって奪われた時間、失った時間は二度と戻らない。

 

 

洗脳によって自分が犯した過ちも取り戻すことも出来なければ、洗脳によって失ってしまった多くのことはもう二度と戻らない。

 

 

 

 

過ぎた事を悔やむより、今やるべきこと、やりたいことに目を向けて、少しずつ歩いていくべきだとは思う。自分で自分を殺してしまいたくなる過去なんて振り返る必要もないし、記憶なんか無くしたままでいい。今の自分の持つ力で少しずつでも前に進めばよいのだと。

 

 

 

 

 

 

 

もともと、大好きな音楽や大好きなアーティストに支えられていても、「ファン」とは名乗らないつもりだったけれど、DIRの再構築ツアーでも、20年、あるいは20年近くDIRを支えてきたファンの方々と自分は違う。けれど、昔を懐かしむことはできなくても、それぞれのアルバムの世界やDIRの音楽を楽しめればいいと思ってた。

 

 

 

 

 

ただ、先月のあの対バンは正直きつかった。

今思えば、(DIR関わってるけど)あのイベントのことなんかすっかり忘れて、京都大作戦チケをなんとしてでも死守して、京都大作戦に没頭していた方が精神的に良かったやろなと思うが。

 

 

 

 

 

 

絶対ないと楽観していた。

 

私自身、箱か何かに詰め込んで、鍵をかけて、宇宙の果てに打ち上げてしまいたい、あるいは今すぐ、もうほとんど失った洗脳にまつわる記憶を抜き出して全部燃やしてしまいたい闇の部分だし、永遠に消えない自身の大罪・・・・・

多分、「アレ」に少しでも触れたら、それこそ、自分で(過去の)自分が許せなくなって、自分で自分を殺してしまうだろう。

 

 

 

 

死にたくなるとか、自分で自分を殺したいとか言ってはいけないのはわかっているけど・・・

 

私がこの世で一番殺したいほど憎んで、いやたとえ殺しても許せないのは、過去の自分自身。

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、もし、本当に私があのイベントを苦にして自ら命を絶っていたら、トミーさんにしてもDIRメンバーにしても、DIRスタッフ関係者各位にしても、何らかの影を落としてしまうのかなと、

ふと思った。

DIR(とLUNA SEA)に再会して、こんな私でも生きていていいというか、DIRに関して言えば、日々DIR EN GREYの存在が私を生かす、と身に染みて感じていたとしても

 

あのイベントが元で自殺してしまっていたら

全く意味ないどころか、DIRを傷つける要因にさえなってしまってたのかな・・・・・・・・?

 

 

 

その音楽や存在自体が自分を生かすアーティストと、自分で自分を殺す(自殺)の引き金をひいてしまうだろうバンドとを同時に体験したら、「生」と「死」どっちが勝つんだろうとも思ったけど、自分の命を懸けた実験なんかできないのは私が臆病だからかな?(笑)

 

 

 

 

 

 

・・・今の私は、自分で自分を殺しては駄目だと頭ではわかっているから、「あれ」には近づかない。

それは某バンドが悪いんではなく、全部、私の責任だし、私が地獄を彷徨うべき罪を背負っているのも、全部、私自身のせいだから。

 

 

ただ、自身の犯した罪の大きさと、二度と取り戻すことはできない失ってしまった多くのことの重さを思うと、「あれ」を耳に入れて生きていけるとは思えない。

 

 

 

 

 

 

 

過去を振り返っても仕方ないけど、じゃあ、私はどの道を歩めばよかったのか、は正直わからない。

LUNA SEAでこういうヴィジュアル系と言われる世界を知ったなら、流れでDIRに出逢えたのは良いとしても、本当はXを聴き(時期的に当時のライブには行けなかったと思うけど)そしてhideさんのライブに行くべきだった。

 

なんでLUNA SEAから離れたんだろうと、数年前の武道館で大号泣したりもしたけど、

DIRから離れたことも相当重い。今、DIRの各アルバム時期とか辿ってみていても、どの時期も本当に格好良くて、魂に響くものばかりで、何故はなれてしまったのかわからないし、思い出すことも出来ない。

DIRから離れなければ、蜉蝣のどの時期から行けていたのだろう、という想いもある。

 

 

悪いのは全部私に他ならない。全ての罪は全部私にある。

 

 

 

ただ、「あれ」に関して言えば、「洗脳」にしか思えないから。

 

 

 

 

けど、本当に出逢いたかったアーティストに(ライブという形で)出逢えていないのであれば、

本当はついていくべきだったアーティストにずっとついていくことが出来なかったのであれば

 

 

あの時、ヴィジュアル系を知らなくても良かったかもしれない。 いや、むしろ、あの時ヴィジュアル系を知らない方が良かったのかもしれない。

 

そうしたら、私自身過去(の自分)をブッ殺してしまいたいほど憎む必要もなかったし、

某バンドに対しても、耳に入れたら、自分で自分を殺したくなるとか避けなくても済んだかもしれない。

 

 

 

 

邦ロックとか今ラウドロックと言われるアーティストが好きでライブやフェスに行っているうちに

たまたまDIRとかMUCC知って、とか

 

邦洋問わず聴いていて、HM/HRにはまり込んでいって、メタルからDIRを知るとか

 

 

そっからV系を知る方が良かったのかな?と思う。

 

その方が国内外問わず色々な多くのアーティストをもっと早く知れただろうし。

 

 

 

 

 

 

ただ、こんなことは言い訳にしかならないけど、音楽は‘自ら聴く心を閉ざさない限りは’、永遠に存在するものだと思うし、

たとえライブで観ることができなくても、音楽は永遠に体や心、魂を震わせていくものだと思う。

 

これが、幻想だとか、気休めだとか否定されたら、自分は生きていては駄目なんじゃないかという気持ちにさえなる。

 

 

 

 

 

あと、

 

 

Soundgarden、AUDIOSLAVE、LINKIN PARKも歌詞に妙な先入観を持つことなく聴いていきたいと思う。NIRVANAとかにしてもそうだけど。

 

音楽とアーティストのプライベート及び、アーティストが抱えるものとはまた別だと私は思う。

 

たとえ、作詞者の日頃の葛藤とかが詞に反映されていたとしても、そこは切り離して音楽を楽しむべきだと、私は思う。

リスナー自身の想いや葛藤、経験に重ね合わせることは時々あっても、作品からそれを描いたアーティストの心の内を詮索するのは、ちょっとどうなんだろう?と。

 

 

 

 

 

なんにせよ、英語も勉強し始めたし、nu METALとかTHRASU METAL辺りからなら入りやすいかなあと思ってたところだったんだよな・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなんばっかか?私は・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

責められるはずもないけど

責める想いは私には全くない。

 

 

死にたい、自分なんか生きていても仕方ない、自分で自分を殺してしまいたい

自分なんか生きる価値もない人間だと、思ってきて、

死にきれずに (しぶとく) この世にまだいる私には

 

 

 

私なんかには計り知れない、重く苦しい、暗い、たった一人きりの孤独の闇の中を漂って、何かに追い詰められて、「死」に向かうしかなかったんだろうと思うから。

(上記は、「追い詰められて」含めて精神的なイメージで・・・・)

 

たとえ、「自殺」ということは食い止められても、そういう状態にあると、精神が肉体を蝕んでいくものだと思う・・・・・リストカットとかしなかったとしても・・・・・・。

 

 

 

物理的には人は一人で生きることはあり得ないけど、

数えきれない傷で心がバラバラになって、暗く、重く、息苦しい、たった一人の暗闇の中を漂っている時は、たとえ、物理的にそばに誰か近しい間柄の人が声をかけていたとしても届かないんじゃないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

生きるって難しい。

 

 

 

 

 

いや、私なんかよりずっとずっと、今生きていなければいけないのに、今この世にいない人達が多すぎる。

 

だから、私にでもできる何か小さなことでも、人の、世の中の役に立てるよう、頑張らないといけないんだろうな。