世界は広い。
2000年にステンシルグラフィティなる洋書を見つけ、魅了され、それから2年後、本格的にステンシルをやり始めて今に至ります。
2000年当時はまだBANKSYやOBEYが今ほど一般層に知られてないくらいでしたね。
2016年の今、
自分は2002年からステンシルやってきて意識してたのは、BANKSYやOBEYの作品の中身やネタではなく、ステンシルスキルの部分で、この人達よりもカットラインをリアルに出すことを重点にしながらやってきたように思います。
一版でリアルな顔を出すこと。
路上で如何に素早く仕上げられるか否か。
BANKSYはやはりその最高峰であり、オリジネイターであります。
そして版の数は多くない。せいぜい3版くらいかな。
対して、OBEYの作品は
両者とも、政治的であり思想的であり、民衆に寄り添ったメッセージ性の強い作品だからこそ世界的に広く支持され続けてきているのでしょう。
最近になって、世界的に影響を与えた浮世絵師や、彫り師、刷り師などの日本古来の技術や、また着物反物の染め用版の存在と優れた技術を知り、
如何に日本人らしく細かいカット作業が出来るのかとやってみたりもしました。
もっと細かくやれるし、やるべきなのだろうけど、一版でリアルを出す限界もある。
リアルを求めて細かくすればするほど、版が一発吹いて壊れるくらいのモロさになる。
そこはグラフィティ品質を保ちたい。
持ち運べる、いくらかの吹き付け回数に耐えられて、一発吹きでリアルな版であること。
いやはや、やはり世界の動向は見ないとダメですね。
ボーッとしてる間に皆さんに完全にブッチぎられてました。
スキルの質、表現の質は、2000年に買ったSTENCIL GRAFFITI本のレベルの何倍も先に行ってました。当然と言えば当然ですが。
そして、それでも尚、BANKSYやOBEYの地位が確固たるものであることは凄い。
世界の動向は、もはやステンシルグラフィティというよりは、完全にステンシルデザインですね。
より写実的であり、
デジタルグラフィックデザインをアナログステンシルでそのまま形にしたようなものが当たり前になっている。
コレらのリアルな版をアナログ出力するには、細かい版を幾重にも重なる必要があるわけで、
ジャパニーズステンシルとしてシルクスクリーンの素となった版と細かさが似ているが、恐らく更に細かい。
じゃあこれから細い版を何枚も重ねたリアル作品を創るのか?
それはしないです。否、出来ないです。
一つの作品にあんな細い版作るのが面倒くさい。時間掛かり過ぎる。
如何に早く、沢山の作品を産み出すかの方が自分的には楽しい。一日一版、ハイ次!って感じ。
と、自分に問いかけ、言い聞かせてます。
そして僕が好きなウォーホルや写楽のポートレイト群。
写楽にしても、ウォーホルにしても、作品から何か滲み出る、人間臭い”間”がある。
細かいのは凄いが、細かいだけが全てじゃない。
最近よく見る、写真にしか見えない絵とか、、、
なら写真でよくね?
写真のように描ける技術は凄いが、表現としては凄くないような?!
そのワザワザ描くっていう無駄さに価値があるって思えるけども個人的に魅力は感じ無いかなぁ。
それより、写真から感じるイメージに合わせて色を様々にブチ込む方が僕は好きですね。
誰でも出来そうな印象を与えながら、結局誰もウォーホルには成れない。なり得ない。
そして、そんなウォーホルが嫉妬したバスキアもまた素晴らしい。
いや、凄まじい。
なので、いつか我が子にこのダヴィンチの人体解剖図を与えてみたいと思います。
ちょいと脱線しましたが、
現在、ステンシル技術における世界標準ラインを目撃したワケですが、
僕は凄い集中力も無いですし、これといって特異な人脈による特異な経験もせず平凡に育ったもんで、
後で全然進んでないことに悩み苦しむ馬鹿野朗であります。
自分は自分らしく、
よりワガママに、
名声に対する嫉妬心も溶かすほどの
自分の内なるドロドロしたクソッタレな部分をステンシルというフィルターを通してドリップしなければなりません。
分かっちゃいるけど、出来ないことが多いですが。
何かインプットしなきゃと今年に入って色々ネタを拾ってますが、そのインプット作業にハマってしまって何からアウトプットしたら良いか分からなくなっているのが、正に今。
アウトプット、それを出来るようにする為に何をすべきか?
ひたすら創り出すのみですね、ハイ 。
寄り道すんなよ。
バイバイ、またね。









































