後半ページに、誰だったかは全く覚えてないけどコラムがあって、何やら仕事と労働は違うと書いてあり興味持って読んでみたら、
仕事は自発的なことであり、
労働は他人からやらされることだと。
名前も肩書きも、今は全く思い出せないですが、なかなかのインパクトでした。
それで、
今の自分は、普段は工場勤務して、その他プライベートな時間でステンシル創作してます。有り難いことに金額の差はあれど、どちらも御金は得られている状況です。
そうなると、
他人に雇われてる工場勤務は労働であり、ステンシル創作は仕事となる。
幸運にも、始めから少数ですが買ってくれる人が身近に居まして、
御金が発生すると、やはり注文してくれた相手を思い、キチンとした作りを心がけて、結果、生まれた作品に対してプライドも増すワケです。
今までに購入してくれた作品の状況を教えてくれたり、また大切にしますと言ってくれたり、ネットの仮想世界でのメールのみのやり取りから、リアルな実対面のやり取りも増えました。
例え顔が見えないメールでのやり取りでも、熱い文章を添えてくれる人も居ますし、何度も購入してくれる人の名前が出ると嬉しいです。
時間も身体も体力も限られてるから、生産数はもちろん少ない。だからこそ一つの作品に価値が生まれると思ってるから、誰かに頼むことはなるべくしない。
例えばTシャツに関して細かくいくと、アイデアからネタ集め、プリントアウト、材料調達、デザイン決め、カットライン見極め、版制作、Tシャツ仕入れ、カラー選択、デザイン位置決め、ペイント開始、乾燥、写真撮り、ネット等で公開という流れ。
一枚のTシャツ作る工程です。
かなりの労力と時間がかかってます。たった一枚のTシャツを作るだけでも。
ただ、精神的苦痛はほぼ無い。あるのは身体的疲労。頭の中のイメージを順を追ってこなしていき、ようやく出来上がった一枚の実作品を見た時の感動と興奮は何ものにも代え難いです。
コレってそもそも、全ての労力の果てに共通してなきゃいけない意識、
達成感ってやつじゃないですかね?
それで例えば、自発的行動のモノでなく、それが他人にやらされてる、依頼されてるモノだとしたら、結果としてそのモノは自分の力で生まれたものかもしれないが、依頼者の意向に沿ったモノであり、1番それに喜ぶのは依頼者か。
ただ、その依頼者が全面的にその人や、その人達の力を信頼し、出来上がるモノを任せてる状況であれば、またそこは新たな達成感の共有が生まれるのでしょう。
その意識の集合体が会社となってるのが理想なんだろね。
現社会と、この世の中には沢山のモノが溢れてます。
大きく分けたら食べ物、飲み物、道具、着る物、建物、乗り物、娯楽品くらいか。
それらが全世界、人間が絡むところに溢れかえってて、必ずそれを作った人がいるわけです。
それが、自発的な仕事によるものか、他人に依頼されて出来た労働によるものなのか、
コレ、実際にそのモノを見たらハッキリ分かりますよね。
自発的仕事、信頼仕事によって仕上がる凡ゆるモノたちは、生産数や生産効率を考えてない、人間の血と汗と涙が滲む、目には見えないアジがあり、間違いなく良品でしょう。
機械には出来ない、人間の手や足によって作り出されたモノの微量な感覚的誤差。
それを無意識に感じとれるのも、やはり人間です。
人から人へ、身体と身体、意識と意識のぶつかり合い。
今や、魚や肉や野菜も大部分は生産者から仲介業者の市場へ、そして販売所のスーパーへ行く。
皆、そこに行けば買える。
ホームセンターに行けば何でもある。
金を持ってりゃ何でも手に入る。
逆に、金がなきゃ何にも手に入れられない。
何でも金さえあれば手軽に手に入れられる状況に慣れ、支配されてるから金を得なければならない。生きてるだけで国に吸い取られる税金もある。
金を得るために、沢山の金を持ってる人に追いすがり、雇われ、毎日労働を繰り返す。
大量に作るのは機械や膨大な人の労働力。
機械は正確な寸法、数、味、全て短時間に生産する。
機械様の監視役は少人数でよい。後は薄給でコキ遣われる雑用駒。
自発的な行動はココじゃ御法度。
それをやればお終い、金は得られない。
食いたきゃ、飲みたきゃスーパーやコンビニのゴミを漁れと言わんばかりに放り出されるのがオチ。
サザエさん鬱症候群。
さあ、どうする。
暗い気持ちになるよ。
管理された工場勤務に比べ、ステンシル創作なら時間の使い方も自由だし、出来上がる工程、仕事態度、飯食う時間だって管理されやしないんだから。
遅刻だの、残業だの、休憩時間だの、飯の時間だの、うるせーってんだ。
自発的行動をさせないことは、管理しやすい。
全ては支配者の為?
悪い支配者ばかりではない。
富を公平に分配する、岐阜のとある企業の会長の記事も見たことあるよ。
親方が弟子として雇うってのは、雇用者が労働者の雇うってのと違う気がする。
親方は弟子に、”独り立ち” 出来る為の技術を教える。
広く皆に求められる技術、1人で生きられる術を身につけさせる。
そんな各分野のスペシャリストがゴロゴロいて、そんな家や、店が並んでたのが町の商店街だったんじゃないかな。
今はショッピングモールだの、企業団地だの、ホームセンターだの、ハウスメーカーだの…
人は居るけど、機械化された接客に気持ちが悪くなる。
アナログ手工芸からデジタル機械生産へ移行し、温かさを失い、冷たさを増したね。
日々の労働で自発的意識を押さえ込み心を機械化。金で釣る。極端だとそんな状況。
そして様々な職人は減る一方。
高度経済成長で、がむしゃらに労働をこなし、進化した機械化は、手作業の職人を減らし、労働者を増やした。
量とスピード、正確性を備えた機械に敵うはずもなく、
職人など自発的仕事人は順調に姿を消していき、労働者へ鞍替え。
結果、今残ってるのは何だ…?
自発的人間は数少ない。大量生産大量消費社会に消されたか?長いモノに巻かれろ体質の蔓延。
こりゃあ、もし今の日本が経済破綻しちゃったらどうするよ?
他人に頼りっぱなしな生活してたらヤバいよなって思うよね。
氷河期ドーン、地震ドーン、隕石ドーン。
サバイバルできる?
麻など、植物から繊維を取り、紡ぎ、編み、生地にして、切り、縫って、着る、履く。
土を見て、空をみて、季節を見て、種を撒き、作物を育て、頂く、また種を取る。
排泄物の処理、肥料化、循環。
獣や魚捕って、包丁使って、捌いて、食う。
木を切って、金槌とノミ、ノコギリ使って加工して、組み、家を建て、住む。
誰が出来る?ほぼ居ないはず。
昔の人は出来てた。金を得るじゃなく、生きる知恵として当たり前に。
自分で出来ない力を借りる為に、金でなく得意分野の技術で返すとか。
自分の手や目の届く範囲、直接やり取りできる範囲で、何かしらの分野の生産技術力は、ほとんどの人が持ってたはず。
今、衣食住を自分の力で賄える人はいるのかな?
時代は変わり、求められるものも多種多様になってはいるが、根っこの衣食住に関する最低限の技術や知恵は持っていたいと思う。
それは、金銭的豊かさよりも、精神的豊かさを生むと思ってます。
そしてそれがジワジワと増えてるはず。
野菜にしてもそうだし、今まで不特定多数、沢山の人に売らなきゃいけない、生産しなきゃならないって概念も無くなってる。
その人が出来る範囲の生産力で出来たモノが本当に欲しがる人に渡る。
僕のステンシル創作物のやり取りもそう。
なぜ大量に作らなきゃいけない?
そんなに消費できる?大量の廃棄物出してんじゃんよ。
信頼出来る生産者による仕事の結晶を、直接的な御金のやり取りで購入する。
こんな当たり前のコミュニケーションがなぜ面倒くさいと淘汰されてきたのか?
なぜすぐ他人に頼る?頼り、自分がその技術を得ようせず、金を払って任せ続けたら、
やはり金を得られなくなったら終わりだ。
やはり、いろいろな手技術を習得しなきゃならないと思う。得意分野はそれぞれ。
僕の場合はステンシル。
衣食住から離れた娯楽分野だろうが、自信を持って高めていきたい。
衣食住の技術を持った人と互いに求め、助けあえる技術でありたい。
ギタリストは音を奏で空間を彩り、絵描きは紙とペンで世界を変える。
他人に期待し、金で何とか解決しようじゃなく、
自分を信じて、自分にしか出来ないモノは必ずあるし、見つける時期は来るでしょう。
僕の爺ちゃんもやってきた事だ。
工場勤務とステンシル創作。
労働と仕事。
よく遊び、よく休み、上手く使いこなさなきゃ。
立川談志の言う、一つの技術を磨き、一人前にその技術で食えるようになる為に時間や労力を惜しまずに注ぎ込まなきゃならないのに、今はバイトで食えてしまう。ってのが問題というのも解る。
その道を極めるにはそれも必要でしょう。
今まで繋がらなかった関係が繋がるようになった。出会いのスピードと量が上がってる。
それにも対応しなきゃね。そこに関してヤることや習得しなきゃならないことの量は増えた。
それに対して、モノを沢山作って対応するのではなく、人と人との出会いを沢山し、モノは自分のペースを守る。
コミュニケーションを取り、待ってもらう、次回に期待してもらうような。
温故知新。
自分の生産ペースを守って、身体を休ませなきゃね。金を稼がなきゃと焦って自分の身体を壊してまで作る意味は無い。
金は極力使わず、手を使い、足を使い、頭を使い、モノを生み出す。
雇われてんじゃねぇ、雇われてやってんだ。労働で得た富を労働者に対して分配するでなく、企業の要らねぇ設備や娯楽にのみ使い税金対策、そしていつまでも上がらない給料で飼い殺しするクソ雇用者共めが。
何が起きようと関係ないね。
バイバイ、またね。