先日はアメリカ及びイスラエルによるイランへの攻撃がありハメネイ師が殺害されるなど、事態が大きく動きました。今後の展開については予断を許さないところですが、まず何より「イラン・イスラム革命から話を始める人を信用してはならない」と繰り返しておきます。これについては1月にも書いたばかりですので下のリンク先を参照いただければと思いますが、「アメリカとも友好的な政権がイスラム革命によって覆され~」みたいに背景を都合良く切り取って解説するようなメディアや大学教員は、イラン側に責を転嫁する意図を持って印象操作を行うものであり、真実から目を背けさせようとする類いでしかありません。

イラン・イスラム革命から話を始める人を信用してはならない

 前回の記事では「中道」と「右派」の同質性について触れました。では残る「左派」はどうなのでしょうか。一つ問題なのは、「左派」とは右派が「気にいらない相手」に貼るレッテルとして使われるのが圧倒的多数で、「他称」左派が無数に存在する一方、「自称」左派は皆無に近いことです。もちろん右派も自称するのは専ら「保守」や「中道」であって自ら右派を名乗ることは少なくありません。ただ「他称」右派が実態としても右寄り思考であるのに対し、「他称」左派が左寄り思考であるかと言えば、そこは当て嵌まらない、純粋に右派から毛嫌いされているだけで内容は問われていないのが一般的であるように思います。

 「自称」左派が皆無である一方、同様に右からのレッテル張りで使われる「リベラル」の方は、多少なりとも自認する人はいるでしょうか。とりわけ「新しいリベラル」を標榜している勢力であれば、政界にもメディアにも学会にも少なからず存在を確認することが出来ます。ただ、この「新しい」リベラルも結局は中道政治の国内方針である「ネオ」リベラルと合致してしまう、右や中道の掲げる主張や政策と対決するものとは言えない、その対抗勢力とは到底呼べない、というのが私の見立てです。

 そもそも左派とは何なのか、歴史的な定義を紐解くのは簡単ですが、それよりもまず現状の支配階層である「中道右派」に対峙できる存在であるかを重視して「左」を規定すべきではないかとも思います。この点で歴史上の偉人としては当然マルクスが挙げられるのですが──この受容を巡っても正統派と異端派が存在しているのではないでしょうか。中道右派からレッテルを貼られる層すなわち「他称」左派の中にも本当に左寄りで中道右派とは考えを異にする人もいれば、実態は左派とは言えず単に右から嫌われているだけの似非左派もいるように。

 基本的にマルクス主義とは進歩史観に基づいているのですけれど、マルクスの影響を受け共産主義を掲げながらも真逆の理想に辿り着いたポル・ポトのような人物もいます。つまりマルクスは人類社会が発展を続けた先に理想を見出したのに対し、ポル・ポトは発展段階のスタート地点であるはずの原始的な共同体を目指してしまったわけです。では日本における「左派」の理想はどこにあるのでしょうか。進歩史観を採るのであれば、現代社会とは過渡的な段階に過ぎず、ここからさらなる発展を望まなければなりません。しかし日本の「他称」左派の中に、このような考えを採る人はどれだけいるでしょうか?

 むしろポル・ポトほどの極端なところまで行き着かずとも、空想上の過去に理想を見出している人も多いように思います。せいぜいが折衷案、マルクスのような未来は望まずポル・ポトのような過去までは望まず、自覚のないまま現代を「到達点」と見なしている人が、とりわけ「他称」左派の中に目立つというのが私の見解ですね。例えば人工的なものは悪、天然のものが本来の姿と見なす等々、今の状態から進歩するよりも元からあるものを正として扱う、そういう傾向が「他称」左派には強いのではないかと。

 この帰結がどうなるか、例えば経済では日本の低成長を「成熟」と誤認するようになる、今ある以上の成長は望むべきではない、成長は格差を生む、成長ではなく分配を目指すべき……みたいな絶望的な主張に陥るわけです。一見すると分配志向であるように見えて、その実は「成長か格差か」の二択を迫るネオリベの前提に基づいていることが分かります。少なくともこれはマルクス主義の正当な世界観に沿ったものではありません。進歩史観に立つのであれば経済は今後も成長を続け、その中でこそ分配は可能になるもの、分配と成長をトレードオフにしてしまうような発想は左派よりもずっと中道=ネオリベに近いと言えます。

 国際関係に関しても同様、現在の「民主主義」を到達点と捉えてしまうと民主主義国=親米国家が「正しい」存在となり、そうでない主権国家は権威主義あるいは独裁政権として「正しくない」存在と規定されてしまうわけです。進歩史観に立てば現行の多数決制度も共産主義へと向かう過渡的な段階に過ぎないのですが、進歩を否定してアメリカ中心の既存秩序を絶対視するようになった結果、異なる政治体制を持つ国家を自然と悪魔化して認識している、それが現状ではないでしょうか。民主主義を最良の体制として「そうでない」国の民主化を推し進める、この理想のためには軍事介入をも辞さないネオコン思想と、進歩を捨てて民主主義を到達点とみなす「他称」左派、どこに違いがあるのか私には分かりません。

 右派層から毛嫌いされ野党寄りと思われているメディアでも、民主主義=親米政権とは「異なる」政治体制を持った国については至ってネガティブな報道で統一されているのが我が国の実態です。それにも拘わらず平和を説くことによって右派メディアとは違いがある風を装ったとしても、どちらかと言えば整合性のあるのは右派の方ではとすら感じさせてくれます。隣国である中国やロシアがもし本当に朝日新聞報道の伝えるとおりの悪意ある国家であるのなら、むしろ産経新聞の方が現実的な対応策を主張しているのではないでしょうか。

 民主主義を「善」として、そうでない国を「民主化(政権転覆)されるべき」相容れない体制と見なしている限り、そうした世界観は現政権の外交方針に説得力を与えるだけです。一見すると政府与党に批判的であるようでいても、隣国を悪玉視し続ける限りは、隣国との関係悪化を正当化してしまうに過ぎません。右からは「左」と呼ばれていても、実行上はネオコンの補完勢力になっているのが本当のところではないでしょうか。そうではなくアメリカを盟主とする「民主主義」を過渡的な段階と見なし、異なる政治体制も尊重する、これで初めて右とも中道=ネオコンとも明確に対峙する正真正銘の左派たり得るように思います。

偽情報、8割を「事実」と誤認識 情報源「テレビ」が最多―衆院選で東洋大調査(時事通信)

 調査結果によると、5件のうち1件でも見聞きした人は半数余りの921人。1人が複数件接した場合も含め、情報が事実だと思った「誤認識率」は79.9%に上った。

 最も見聞きした人が多かったのは、「マンション高騰は外国人が投機目的で購入しているからだ」で、回答者の4割余りを占め、うち89.6%が事実だと認識していた。他にも「中道改革連合の斉藤鉄夫共同代表が『人間より他にもっと大事なものがある』と発言した」や「こども家庭庁を廃止すれば減税分の税源を賄える」の誤認識率はいずれも約73%だった。

 偽情報に接した経路はテレビが最多の32.7%で、ニュースサイト・アプリ22.7%、SNS20.0%と続いた。誤認識率はいずれも7割以上だったが、テレビが84.9%と最も高く、友人・家族との会話(82.4%)、ニュースサイト・アプリ(80.3%)と続いた。

 

 とかく高市首相や新興政党の支持層は「オールドメディア」を嫌うわけですが、彼らの信奉する誤情報の拡散に最も貢献しているのはSNSではなく実はテレビである可能性を示す調査結果が発表されました。結局のところSNSに流れる膨大な偽情報も独自に発明されたものは少なく、新聞なりテレビなりから始まっていることが多い、どれほど悪罵されようとも既存メディアの需要が絶えることはないように見えます。新聞やテレビが問題のある情報を発信し、それがSNSで増幅される、オールドメディアとソーシャルメディアは対立するものではなく、むしろ相互に支え合う両輪ではないでしょうか。

 同じことは「中道」と「右派」にも当て嵌まると言えます。字面だけを追えば「左」と「右」の中間を装う「中道」ですが、実態としては「中道右派」として連立を組むことがヨーロッパではスタンダードでもあり、それはすなわち妥協の結果ではなく根本的な部分で繋がっているからだと私は思います。そして中道と称する人々が実際に奉じているのはネオコン思想であり、アメリカを盟主とする「民主主義」を唯一の正当な体制と位置づけ、ここから外れた体制を維持する主権国家を「権威主義」あるいは「独裁国家」として下に見るわけですが、これと「右」のレイシズムが好相性であることは言うまでもありません。

 要するに中道=ネオコンは「正当化のロジックを塗り重ねた自文化至上主義」であり、右派=レイシズムは「感情的な自文化至上主義」みたいなものではないでしょうか。ここで「非エリート」の差別主義者が感情の赴くままに発言し右派と認定される一方、「社会的に権威のある」差別主義者は右派から距離を置くフリをすることで中道を装う傾向が強いのですが、そうした振る舞いが右派の反発を招き対立陣営である「左翼」あるいは「リベラル」と認定される結果に繋がることもあります。中身は全く左派ではないにもかかわらず、ただ単に右派から嫌われているだけの「左翼」ですね。

 右派は自分たちの気に入らない存在を盲目的に「左翼」あるいは「リベラル」と呼びます。ただ当事者の自認は全く異なることの方がむしろ普通です。象徴的なのが「中道改革連合」を称した立憲民主党ではないでしょうか。これは故・社会党の支持基盤をちゃっかり懐に入れた代償とも言えますけれど、中道右派たる自民党の対立陣営として左派のレッテルを貼られることが多かったわけです。しかし党所属議員達の政策スタンスは異なる、自分たちは左翼ではない、左派よりもずっと思想信条面の近い中道右派層から支持して欲しい、そんな心の叫びが「中道」という党名を生んだように思います。

 「オールドメディア」もそれに近い、単に「右派から嫌われている」だけで実態は必ずしも反発している層からは遠くない、というのが私の説です。新聞やテレビの垂れ流す偏向報道がソーシャルメディアを通じて増幅されているだけで、両者の方向性には必ずしも大きな違いはないのではないでしょうか。とかくネットやSNSで「真実」を知ったつもりになっている人も、その情報源を辿っていくと新聞やテレビに辿り着く、世の中そんなものです。オールドメディアとソーシャルメディアの違いは、権威ある風を装っているか、誰でも参加できる風を装っているかの違いぐらいのものでしょう。

 私の勤務先はさておき親会社の方はそれなりに大手でして、労働組合が存在します。事実上のユニオンショップのため私も一応は組合員であり、選挙の度に投票先の「推薦」を受けているのですが──組合の奨励する候補及び政党に投票したことは一度もありません。何はともあれ今年も春闘の季節に突入し、我が社の組合も「時間外労働拒否闘争」などと称して定時退社の指示が組合員へと下されました。これも結局は毎年の恒例行事に過ぎず、他社の妥結と時期を合わせて「苦渋の決断」云々の定番フレーズで同業他社に劣る賃上げを発表するパターンが続いているのですが、いかがなものでしょうか。

 ところで皆様は、会社から残業を指示されたことはありますか? 取り敢えず私の場合、今の会社では一度もないですし、前の会社でもありませんでした。昔、電気屋でアルバイトしていた頃は「○○時まで残って」と言われたことはありますが、オフィスワークに入ってから残業命令を受けたことは全くないですね。業態によって違いはあるのでしょうけれど、往々にしてホワイトカラーの職場の残業とは担当業務の進捗に応じて社員の判断で行われるのが一般的であるように思います。「会社から命じられたから」ではなく「仕事が残っているから」残業する、会社が課すのは担当業務をこなすことであって残業そのものではない、少なくとも私が務めたことのある会社ではそれが普通でした。

 一方で会社側は人件費削減を望んでいる、当然ながら残業代は抑えたい、加えて自らを「ホワイト」に見せかけるためにも残業は減らしたい、そんな思惑で動いているところも決して少なくはないでしょう。だからといって一人当たりの業務量を減らそうとはしないのが普通の経営というものですが、とにかく会社側としても決して残業そのものは望んでいないように思います。業務量はそのままに、社員には残業代ゼロで対応してもらいたい、不払いで問題になるのも嫌だから可能な限り定時で仕事をこなして欲しい、これが雇用サイドの理想ではないでしょうか。

 だから組合の掲げる「時間外労働拒否闘争(=ただの定時退社)」は経営陣から見ても好ましいものと言えます。組合幹部は賃上げのために会社と争う風を装いつつ、それでいて会社には決してダメージを与えない、これぞ労使協調の到達点なのかも知れません。しかしながら会社にとっては痛くも痒くもない「闘争」手段であるが故に、経営側を折れさせる圧力としては何一つ機能していないのが実態です。春闘はあくまで形式上のもの、同業他社と横並びで調製すれば良いぐらいにしか思われていない、全くの茶番劇と言うほかありません。

 これがマルクスやエンゲルスの時代の工場労働であったなら、時間外労働の拒否も効果的ではあったのでしょう。雇用側の判断で残業を命じ、残業「しない」ことによって停滞した業務の責任を負うのもまた雇用側であったなら、時間外の拒否は痛手となり得る、労働者側の要求を呑んででも残業してもらわねばとの判断に繋がることが期待できます。しかし現代のオフィスワークにおいて残業とは会社から指示されるものでもなく、かつ残された仕事の責任を誰も肩代わりしてくれないのが現実です。組合の指示に従って定時で帰ったために業務が滞ったとして、では経営層や組合幹部が代わりの仕事を引き受けてくれるのでしょうか? そんなことはあり得ず結局は担当者がなんとかするしかなく、組合の目を盗んでサービス残業するか創意工夫を重ねて時間内に業務を片付けるかせざるを得ない、いずれせよ会社側としては痛くも痒くもない、それで譲渡を強いられることもないわけです。

 会社から賃上げを勝ち取る、会社を「折れさせる」ためには、会社に圧力をかけなければなりません。時間外拒否のように会社が喜ぶだけの「闘争ごっこ」では、同業他社を下回る賃上げ率しか引き出せていないのも当然の話です。会社を「折れさせる」ためには、会社が嫌がることをやらなければなりません。では会社が嫌がることとは何か、最も強力なものは──言うまでもなくストライキです。しかしボロは着てても心は錦、貧しくとも心はエグゼクティヴの日本社会ではストライキが理解を得られることはなく、極めてハードルの高いものとなっているところもあります。

 ではもっと気軽に出来て効果的でありながらも労働者側のリスクが小さいものはないのでしょうか。そこで私が提唱するのが「生活残業闘争」です。もちろん「生活残業」であることを露にする必要はなく、あくまで「業務が残っているから」と定時を過ぎてもダラダラと会社に居座るわけですね。決して会社に背くつもりはなく、ただ課された仕事を全うすべく頑張っている結果として残業時間が延びているだけ、自分は熱心に働いているのだと会社側にも説明が付きますし、それでいて残業代も入ってきます。一方で経営側からすれば支払わざるを得ない残業代の増加、平均残業時間の上昇による企業イメージの低下など、ダメージは小さくありません。

 仕事そのものは通常通りに続けるわけですから顧客へ迷惑をかけることはありませんし、建前上は業務を全うすることに努めた結果として残業時間が延びているだけなので会社から処罰を受ける謂れもない、ただただ経営側が苦しめられるのが「生活残業闘争」と言えます。だから組合が本当に会社に圧力をかけて賃上げ交渉における譲渡を強いるつもりがあるのなら、組合員には残業を促すべきなのです。仕事量はそのままでも、残務があるからと言ってダラダラと勤務時間を引き延ばす、「賃上げ要求を呑まないとこのまま居座りますよ」と、そうすることで初めて会社側も待遇改善を真剣に考えざるを得なくなります。労組が本当に戦うつもりがあるのなら、経営陣も歓迎すること(=時間外拒否)ではなく、経営層が恐れることをやらねばならないのですから。

 2020年にオリンピックの追加種目となって以来、スケートボードで階段の手すりを滑り降りる競技では日本が世界トップの強豪国として君臨していたりするわけですが、スノーボードも日本勢が強いみたいですね。表彰台には日本人ばかりが並んでおり、果たして日本人には板に乗る特別な才能でもあるのかと思ったりしないでもありません。何はともあれメダル獲得おめでとうございます、と言ったところですが……葵来、椋真、心椛、優斗、琉聖、光希、茉莉、帝勝と、私には半分くらいしか名前が読めません。政治家なら20代や30代前半の若手でも読めない名前というのは滅多にお目にかからないのですが、同じ日本でも全く別の世界に生きているみたいだな、という印象を受けました。

SAM、衆院選めぐり私見「高市さんは決して他党を批判しない」(日刊スポーツ)

各政党がネット世論を意識してSNSなどを活用した選挙運動を展開する中、SAMは高市首相が「最後のお願い」として自民党公認候補への投票を呼びかけたX投稿を引用。「政治的な思想とか特にないけど」と前置きした上で、「いろいろみてて感じるのは 高市さんは決して他党を批判しない」と言及した。

「そこにはネガティブな悪口や、誰かを貶める誹謗中傷一切なく自分たちの政策を真っ向から伝える真摯でポジティブで清々しい空気が流れてる」と私見を述べ、「人が人を信用する時にはこう言う空気感が伝わって気持ちが動くんだよなぁきっと」とつづった。

 

 どうにも支持層の間では「高市は批判をしない」と肯定的に語られているとの話を聞きまして、実際はどうかと思ったりもしましたが、上記引用の通り報道に取り上げられるレベルでもそうした受容は見られるようです。確かにまぁ高市首相の発言は「批判として成立していない」ところはありますし、他党の党首が日曜討論に参加している間も街頭演説に徹するなど「そもそも他党を避けている」ところもあるだけに、「他党を批判」していないこと自体は事実なのかも知れません。このような事実を前提にして「真摯でポジティブで清々しい」云々と実家が太いことで有名なSAM氏は続けるわけですが、こうしたロジックは支持者の間では概ね共通しているのでしょうか。

 逆に言えば「野党側は他党を批判する」ものとしてネガティブな悪口が多いとの印象となっているのでしょうか。「さもしい顔をして貰えるものは貰おうとか、弱者のふりをして少しでも得をしよう、そんな国民ばかりになったら日本国は滅びててしまいます。」とは過去の高市氏の発言で、これは生活保護受給者を貶める誹謗中傷でしかありませんが、支持層の間ではノーカウントのようです。「中道」や「保守」が字義通りの意味ではなく実際にはネオコンやレイシストを指すように、恐らくは「批判」もまた字義通りの意味ではなく、もっと別の意味で流通している、そんな気がしますね。

 今回の選挙で自民党に続く躍進を果たした政党としては「チームみらい」ことチームディストピアが挙げられます。この政党の特徴の一つは立憲民主党を上回る家計簿的な財政観で、所得水準の高い地域での支持を集めているようです。そしてもう一つは高齢者の社会保障の切り下げを主張しているところで、若年層からの共感を呼んでいる様子も窺えます。さらには「分断を煽らない」と自称しているらしく、売り出し方としては高市政権と似通う部分もある、支持層が地方寄りで都市部に隙がある自民党を補完する役目が期待されているとも考えられるでしょうか。

 もっともディストピア党が「分断を煽らない」と称しつつ暗に高齢者の医療費を標的として掲げているように、高市の「批判をしない」も決して万人に向けられたものではなく、支持層が「批判」という概念を都合よく捻じ曲げているだけと言えます。すなわち高市シンパの考える「批判」とは「上に逆らう」ことであり、高齢者なり生活保護受給者なりに向けられた誹謗については全くの別物として取り扱っているわけです。適者生存の動物社会とは異なり日本社会は弱肉強食こそが基本理念、強い存在が弱い存在を足蹴にするのは罪ではなく、逆に弱い存在が強い存在に抗えば「ネガティブな悪口や、誰かを貶める誹謗中傷」として扱われる、そういうものなのでしょう。

 例えば学校でも、スクールカースト上位の子供が下位の子供に危害を加えても教員達から黙認されがちな一方、スクールカースト下位の子供が上位の子供に反撃すれば、それは大問題となります。会社に入っても、上からの理不尽な指示には従うのが当たり前、組合を結成して会社と戦おうなんて動きが多数派の支持を集めることはありません。組織の問題、世の中の問題を指摘することは「他責思考」であり、地位のある人々が決めたことを変えようとする試みは好まれない、それが日本社会です。強者に異議を申し立てること自体が悪である、「上」には黙って従うのがも模範的日本人である、そんな思いが自覚のないまま根ざした結果が「高市は批判をしない」という幻想と支持に繋がっているように思います。

 ことによると中国やロシアに対する日本の異常な嫌悪もまた、同じロジックで説明できるのではないでしょうか。日本人にとって世界の頂点はアメリカであり、親米政権=民主主義であることが当然である、アメリカの戦略に沿って世界が協働することこそが平和である、そんな世界観を与党も野党も、オールドメディアもSNS利用者も共有しているわけです。だからアメリカの干渉を受けるのもアメリカから押し売りされるのもアメリカ兵の不法行為を見逃すのも、あくまで「上」に従うという点で何ら理不尽ではないと言えます。しかるにアメリカに従わない国があって、その代表側が隣国たる中国でありロシアです。そして「上」に抗うことを最も非倫理的な振る舞いと考えるような人々にとって、アメリカに逆らう国=罰すべき対象となってしまうのでしょうね。

 さて先日の衆院選では自民党が316議席を獲得、単独で3分の2を上回る結果となりました。「一党独裁」と日本で呼び慣わされている中国でも全国人民代表大会常務委員会の定数175に対し中国共産党の議席は110で3分の2を下回る状況と言えば、どれほどの大勝であるか分かるでしょうか。しかも自民党の場合は比例区の「候補者不足」のために本来ならば当選できた14もの議席が失効し野党に明け渡される結果を経ての316議席です。しかるべく選挙結果を予測して候補者を立てていれば自民党単独で330議席の獲得が可能であった、それが我が国の民意なのでしょう。

 一方で公示前の野党第一党であった「中道」は候補者不足で自民党からこぼれ落ちた14議席から最大の分配を受けてなお公示前の167議席から49議席へと際立って大きく議席を減らす結果になりました。なお元公明の議員は公示前の24人から28人へと議席を増やしており、実質的には議席を約7分1まで減らした立憲の一人負けと言えます。野田の見通しの甘さが顕著に表れた結果ですが、野田程度の人材がトップにのし上がってしまうあたりに党のレベルが現れているのかも知れません。これまで「なんとなく」与党の対抗馬的ポジションを与えられてきましたが、その化けの皮が剥がれたのでしょう。

 まぁ野田と言えばかつての首相時代には消費税増税への合意を自民党に約束させ、その自民党にとって都合のよいタイミングで解散総選挙を行った「禅譲」の実績があります。松下政経塾の第1期生として、同門の後輩たる高市早苗へのプレゼントを送ったぐらいに思っておいても良いのかも知れません。ともあれ高市政権が何かを成し遂げたという段階には到底ないわけですが、それでも国民は高市自民党を選んだ、実績ではなく雰囲気で支持をする、小泉純一郎政権時代の空気が戻ってきたところもあるでしょうか(参考、悦びの政治)。これから問われるのは結果ではなく国民を悦ばせられるかどうかのようです。

 30余年前、日本と中国の経済力や技術力は大人と子供の差がありました。そこから時が流れて日本と中国の力関係は老人と大人のそれになったかに見えたのですが──昨今の動きを見ると単なる老人どころではなく「認知機能の衰えが進んで被害妄想も激しくなり、攻撃性が増した老人」ぐらいが日本の立ち位置なのかも知れません。日米の軍事演習やアメリカの指示する輸出規制への加担、台湾問題への介入宣言など、これは当然のこととして中国政府側も何らかの対応を見せざるを得ないところ、しかるに中国政府の反応を見て日本国民の大半は一方的な攻撃を受けたかのように認識しているのが実態ではないでしょうか。

 この辺はいわゆる「オールドメディア」や大学教員などエスタブリッシュメント層の加担も少なくありません。中国やロシアなど隣国の悪魔化は決してSNS上だけで行われたものではなく、むしろ新聞やテレビなど既存のマスメディアが率先してきたことは誰も否定できないはずです。自民党寄りのメディアも野党寄りのメディアもあるわけですが、隣国を侵略の意図を持った危険な存在として描きだし、権威主義的な打倒されるべき体制として伝えてきた点ではどの大手メディアも共通しています。そうした「設定」の上でどちらがより整合性のある主張をしてきたかは問われるべきかも知れません。

 隣国の悪魔化と友好親善は矛盾した話です。朝日新聞なりNHKなり右派から毛嫌いされるメディアもまた隣国の悪魔化に勤しんできたわけで、それが平和を説いても無理筋にしか見えないことでしょう。むしろ高市政権やその支持層の夢見る隣国との決別路線の方が筋が通っているように見えるはずです。隣国を危険な侵略者と伝えておきながら協調を説くよりも、悪意ある隣国から自国を守る備えを説いた方が支持が集まるのは当たり前の話と言えます。同じフィクションの中でも矛盾した主張を展開してきたのがリベラルと呼ばれる層であり、フィクション上では一貫性を保っているのが保守と呼ばれる層であるなら、後者の方がまだしも「現実的に」見えるのかも知れません。

 今も昔も国民を団結させるものは「憎しみ」です。かつて官僚や公務員へのヘイトが日本中を覆い尽くしたときには、官僚バッシングの担い手として民主党が自民党を上回る支持を集めました。そして現在は中国へのヘイトが国民統合の鍵となっているわけですが、この時代に野党側はどうあるべきだったのでしょうか。野党の退潮を嘆くメディアも見受けられますが、そのメディアで描かれた中国像やロシア像が正しいのなら、高市政権のやっていることの方が妥当だと私は思います。同様に日本共産党の説く中国共産党やプーチン政権像が正しいのなら、やはり高市政権の方が「現実的な」対応をしていると言わざるを得ません。読者・視聴者・有権者に阿って隣国の悪魔化を進めてきたツケは、今まさに自らへと跳ね返ってきているようです。

 世の中には体罰を肯定する論者がいて、それを支持する人々もまた結構な頻度で目にするわけです。主張の是非はさておき体罰肯定派の人々には、自分の子供時代を振り返ってほしいと思います。もし当時の担任教師が自分の味方をしてくれて、しかし体罰が許されないが故に問題を解決できなかったという経験があるのなら、そこに体罰解禁を求めることは合理的発想なのかも知れません。しかし当時の担任教師が味方ではなかった、むしろ加害者側の肩を持っていたのなら、仮に体罰を導入したところで学校の治安が回復されることはないでしょう。

 いわゆる「いじめ」動画が世に拡散されて話題になることも時にありますが、これは被害者側の告発のために撮られたものではなく、むしろ加害者側が撮影していることが一般的です。そしてなぜ自身の悪事の証拠を残すようなことをするかと言えば、それは自分たちの所属しているコミュニティの間ではむしろ肯定的に受け止められるからではないでしょうか。東京オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当であった小山田圭吾氏が過去の「障害者いじめ」を取り沙汰されて話題になりましたが、これも第三者から告発されたものではなく自身が武勇伝のごとくに語ってきたのが発端だったわけです。

 往々にして加害者と被害者を取り巻くコミュニティの中では、他人を害することで強者=上位カーストとして持て囃され、逆に危害を加えられれば弱者=下位カーストとして蔑まれる、そんな関係が構築されがちです。さらに教員は上位カーストに寄り添うことでコミュニティの調和を保つことを選びがち、上位カーストから下位カーストへの攻撃が許容される一方で、下位カーストから上位カーストへの反撃は秩序を狂わす大問題として扱われがちではないでしょうか。このような状況で教員に体罰というカードを渡せば、その矛先はどこに向かうのか、少なくとも私は上位カースト側ではないと確信しています。

 自分が誰かに暴力を振るう側で、かつそれを学校教師から容認されてきた人間が体罰肯定論を説くのは理解できないでもありません。しかし誰かから暴力を振るわれる側で、それを学校教師から黙認されてきた人間が体罰肯定論に頷くのはあまりにもナイーブだと私は思います。これまで自分の味方ではなかった「先生」が、体罰の許可によって自分の味方になる、加害者サイドを罰してくれる、そんな想定はあまりにも非現実的でしょう。むしろ体罰が向かう先は、教師にとって気に入らない相手、暴力を振るっても(コミュニティの中では)許される相手の方と想定すべきです。

 学校を出ても然りで、何かしらのトラブルに巻き込まれたとき、警察は自分の味方をしてくれるでしょうか? 犯した罪の割に加害者側が軽く扱われていたりするケースも多々あって、そんな時にはしばしば「上級国民」だから等と噂されたりもします。真偽はともあれ警察機構も万人を平等には扱ってくれないことでしょう。被害者側を泣き寝入りさせて事件を有耶無耶にしてしまうこともあれば、気の弱そうな相手を拘束しては自白を強要し事件解決とすることもある、そして見た目が日本人的であるか欧米人風であるか、それ以外の外国人風であるか次第で警察の扱いも違うわけです。

 何かあったときに警察あるいは国家が自分の味方をしてくれると本当に思うなら、その人は社会的強者であると言えます。事件に巻き込まれても警察や国家が自分の味方をしてくれない、逆に加害者側の肩を持って自分を泣き寝入りさせようとする、あるいは自分を冤罪に陥れようとする、真の社会的弱者とはそう扱われるものです。スパイ防止法云々と今まで以上に国家権力に恣意性を与えようとする企てに賛成する人もまた多いところですが、支持者は社会的強者なのでしょうか、弱者なのでしょうか。自分を救われるべき弱者と位置づけておきながら、一方で強権さえ与えられれば政府が自分の味方をしてくれると思うのなら、それは矛盾した発想としか言いようがありません。

①月収20万円で支出19万円の生活
②月収30万円で支出30万円の生活
③月収40万円で支出41万円の生活
この中で最も豊かなのはどれでしょうか?


 世の中には万年赤字の企業というのも少なからず存在していまして、たとえばChatGPTで有名なOpenAIなどは創業以来ずっと赤字で、2025年の前半だけでも100億ドルを上回る損失を計上したと伝えられています。目標としては2030年の黒字化を掲げているようですが、そんな都合よく収支が好転する保証はどこにもありません。それでもOpenAIは売上が増えている、事業が拡大していること自体は明らかであるため、「いつかリターンが得られる」ことを期待して資金が集まってくるわけです。その反対に「利益は出ている」企業でも事業規模自体は縮小する一方で、いつ銀行から運転資金を引き揚げられてもおかしくないケースもまた存在します。

 ことさらに日本は家計簿的な経済感覚が政財界にも浸透しており、ことによると上記の中では①の「黒字」の生活が最も豊かなものに映っているのかな、とも思います。実際のところ日本の経常収支は基本的に黒字(というより、世界トップクラスの黒字国家)でありながら、GDPの伸びは名目実質ともに停滞、その経済成長率は内戦国と肩を並べる水準で推移してきました。経常収支は大赤字のアメリカが「月収40万円で支出41万円の生活」で力強い成長を続ける一方、ひっそりと「月収20万円で支出19万円の生活」を送っているのが我が国の現状なのかも知れません。

 

労働力人口、初の7千万人突破 25年平均、失業率は横ばい(共同通信)

 総務省は30日、働く意思や能力を示す「労働力人口」が2025年平均で7004万人だったと発表した。比較可能な1953年以降、初めて7千万人を突破した。高齢者や女性の就労が進んだことが背景。完全失業率は、前年から横ばいの2.5%だった。厚生労働省が同日発表した25年平均の有効求人倍率は、前年を0.03ポイント下回る1.22倍だった。低下は2年連続。

 労働力人口は、就業者と失業者の合計。25年平均の完全失業者数は、前年と同じ176万人だった。就業者数は47万人増の6828万人で過去最多となった。

 

 なんとかして現状の間違った経済政策を肯定させようとする動機を持った論者もいて、そうした輩はしばしば「日本は既に成熟した国家」なのだと説き、人口増加のボーナス時代が終わった以上、経済成長しないのは自然なことなのだと世間を欺こうとしています。しかるに現実では日本「以外」の全ての先進国が経済成長を続けており、日本と同等の低成長を記録したのはいずれも内戦が発生した国だけです。そして人口こそ減少に転じた日本ではありますが、女性や高齢者の就労が進んだ結果として労働力人口は増加が続いている、「日本で働く人」は今もなお増えているわけです。しかるに働けど働けどなお、日本の経済は成長していません。

 収入は支出と対になるものでもあります。働く人への対価すなわち賃金を日本企業が抑制して来たところが起点の一つですが、そこからさらに支出=消費が抑制されてしまえば経済が停滞するのは当たり前です。この消費への課税を強化する度に日本経済が大きく失速してきたのは言うまでも無いことで、消費への課税を撤廃することは日本経済最高のため不可欠には違いないでしょう。その上で、日本国内の勤労者が得た収入を積み立て投資という名の貯蓄ではなく消費に回すようなマインドの変更も求められます。

 日本の労働力人口が最大を更新したように、日本の個人金融資産もまた過去最高を更新しています。それでも日本経済が活性化しないのは、結局のところ消費されてこそ豊かさは得られる、将来的な含み益を期待して寝かされているだけの金融資産が日本社会を豊かにするものではないからです。現在の「積み立て投資で(個人的に)老後へ備える」ようなライフプランを否定し、働けなくなった世代の生活を国家が保証することで、現役世代が投資ではなく消費にお金を費やせるような社会設計こそ求められます。

 お金は、使っても無くなりません。何か商品を購入してお金を支払って、そのお金が「消えて無くなる」のを見たことがある人はいますか? 私は一度もありません。支払ったお金は、別の人の手に渡るだけです。政府でも企業でも個人でも、消費したお金は必ず別の誰かの手に渡ります。お金が消えて無くなるのは、紙幣を燃やしたり貨幣を鋳つぶしたりと、法律で禁じられた行動を取ったときだけです。何も買わず何も得ない生活と、稼いだ分だけ蕩尽する生活、差し引きは同じでも豊かさは違います。消費こそが我々の社会を活性化するエンジンであり、いかに世の中へ消費を促すか、それこそが経済の根本のはずです。

宮崎市長に清山氏再選 無所属新人破る(時事通信)

 任期満了に伴う宮崎市長選は25日投開票され、無所属現職の清山知憲氏(44)=自民、国民民主、公明推薦、立憲民主支持=が、無所属新人で一般社団法人代表理事の佐藤健次郎氏(47)を破り、再選を果たした。投票率は32.84%(前回38.76%)だった。

 

自民、参政の勢い警戒 福井知事選に敗北【26衆院選】(時事通信)

 25日投開票の福井県知事選で、自民党が支持した候補が参政党の支援を受けた新人の石田嵩人氏に敗れた。タカ派の高市早苗首相(自民総裁)の誕生で保守層奪還に期待が高まっていたが、冷や水を浴びせられた格好。27日公示の衆院選を控え参政の勢いに警戒感が出ている。

 「参政は参院選で盛り上がった後は目立たなかったが、まだまだ政権批判票の受け皿だと示した」。自民関係者は26日、こう語った。

 自民候補は与野党相乗りで、立憲民主、日本維新の会、国民民主、公明各党も支援。石田氏は自民の福井市議が支え、選挙戦中盤までは競り合っているとの見方が強かった。

 潮目が変わったのは19日だ。福井出身の神谷宗幣参政代表が県庁で記者会見し、外国人労働者の受け入れ制限など石田氏の主張を評価。「明らかに参政に近い」として支持を表明した。石田氏は4000票余りの差で当選。県内のある首長は「参政が支援を決めてから党員が動きだした。SNSも使った動きが県全域に広がった」と明かした。

 

 宮崎市長選の方は自由民主、立憲民主、国民民主の黄金のトライアングルによるゼロ打ちで当選が決まった一方、福井県知事選では野党共闘──与党自民党と野党の共闘──も実らず、参政党が支援する候補に敗れるという波乱の展開に終わりました。移民反対、日本は単一民族国家などレイシストに寄り添った主張が幅広い支持を集めたようですが、知事本人と参政党のどちらの集票能力が物を言ったのでしょうね。なかなか新興政党が勢いを維持するのは難しいのですが、次の選挙でも参政党は一定の存在感を発揮することになりそうです。もっとも、どの政党が伸びても中道(ネオコン・ネオリベ)は右派(レイシズム)と対峙しない、右派もまた中道と対峙しない、そんな中道右派路線自体は堅持されると予想します。