アンパンマンは頭を食べさせたあと、
新しい頭に取り替えるのですが、
私たちは通常、脳が自分自身だと考えています。
従って、脳死の人を生かすために
他者の脳を移植すると言うことは考えません。
もし脳死の人に脳を移植することが可能となったとしても
それは脳死の人のためではなく、
脳の所有者?、すなわち全ての臓器を取り替える必要があった人
のための医療と見なすでしょう。
脳死したAさんに心停止したBさんの脳を移植する。
Aさんの身体を持ち、Bさんの脳を持つ人は
主観的にはBさんなんだけど
客観的にはAさんとみなされるでしょう。

だとすると頭、すなわち脳を全て取り替えるアンパンマンと言う存在は
一体なんなのでしょうか?

頭を作り直した時、以前のアンパンマンの経験なり、知識は
全て新しい頭に引き継がれなければなりません。
ということはアンパンマンの経験なり、
知識はどこかで記録されていることになります。
新しい脳に知識や経験をダウンロードした場合、
それは私なのか、
私の記録を引き継いだ新たな個人なのでしょうか?

脳死者に他者の脳を移植した場合、
以前とは身体的な条件が異なりますので、
以後の経験は脳死者の経験でも
身体を取り替えた人の経験でもなく
新たな人の経験になるのでしょう。

やなせさんはなぜこのような問題を抱える頭を
交換可能にしたのでしょうか?

餓えている人を助ける行為は普遍的な正義であり、
正義を実践する人は誤解を恐れずにいえば誰でもいい。
誰でもがアンパンマンになれるということなのではないでしょうか?

一即多 多即一
アンパンマンは普遍的な正義であり、
一方で個々人の正義そのものがアンパンマンだから、
取り換えられる脳は誰の脳でもいい。
餓えている人を助けたいという思いが発動するとき、
我々はアンパンマンになるのであり、
それ以外の時は誰でもいいということなんですよ。

私たちはこのアンパンマンの心を一般意思として
持たないといけないのです、たぶん。