自殺の原因がいじめであるかどうかを
明確にさせることがそんなに重要なことなのか
私には良くわからない。
いじめが原因の自殺の場合は、学校、そして加害者の責任だけれど
いじめでない自殺の場合は学校の責任ではなく、
自殺者本人や家庭の責任とでも言うのだろうか?
いじめの事実を学校に伝えたから、
家庭には責任は一切なく、
全面的に学校の責任であると言うことにはならないだろうし、
学校生活が原因でないから、
学校には責任は一切なく、
家庭、あるいは自殺者本人の責任であると言うことでもないだろう。
自殺させた責任が何処にあるのかと言う議論ではなく、
結果的に自殺をさせてしまったという事実において
学校、家庭、同級生など生前に自殺した子どもと関わった
全ての人が彼/彼女の自殺を防ぐために何ができたかを考えることだろう。
これは責任を曖昧にすることではない。
できたはずなのに実行しなかったことはないか
それぞれがそれぞれに責任があることを自覚することだろう。
生前に少しでも関わったことがある人は、
彼/彼女の変化に気づけたはずだし、何か出来たはずだ。
それは例えば、朝、挨拶しあうレベルでもね。

自殺した人は生き返ることはないけれど
次に犠牲者をださないために知恵を絞り合うことが大切なように思う。
最も報道が沈静化したあと、当該学校ではきっちりと
検討されているのだろうけど・・・


でも、一番厄介なことは、自殺はいけないと行っている大人達が
最も重い責任の取り方として簡単に自殺を選択していることかも知れない。
高校の未履修問題やいじめの問題で大人である校長が自殺してしまったし、
年間3万人の大人が様々な理由で自殺しているのだから、
いじめられているこども達に自殺はいけないよと言っても
あまり説得力がないように思える。

それにここ数年
愛する人のために自殺することが尊いとする映画も多く作られている。
男たちのYAMATO

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今、石原慎太郎が製作中の
俺は、君のためにこそ死ににいく
などなど

いじめで自殺するのは弱い人間だけど
自らの過ちの責任をとって自殺するのは強い人間と言うことだろうか?
愛する人のために命を捨てることは美しいことなのだろうか?

では、いじめの加害者が責任をとって自殺した場合、
どのように報道され、学校やいじめの被害者、そして
加害者の両親はどのような発言をするのだろうか?