昨日、私は「私の障害、私の個性。」と言う記事で
「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」については
障がいではなく、個性と言えるかもしれないと書きました。

その根拠は、脳の気質的障害だと言われてはいるけれど、
少なくとも現在の医療技術ではその障害を見つけることは困難であること、

それにもしこの技術が開発されれば、
極微細な脳細胞の損傷を持つ人が
大量に発見される事態が想定され、
ほとんどの人が自閉的特質を持つことになり、
結果的に個性と言わざるをえないのではないかと思います。


当事者の手記を読む限りにおいて、
確かに思考プロセスなどは健常発達者と著しく異なるけれど、
その思考プロセスは十分に理解できるし、
ルールの善悪は評価できないけれど、
決められたルールには律儀に従うと言う特性は
寧ろ新しい時代にふさわしいと言えるかもしれないと思います。

そう、分業システムの究極の形かもしれません。
でも、だれが指揮をするのかと言う課題と
この特性は諸刃の剣で、ファシズムに走る可能性もありますね。
そういえば、ドイツ人の性格って自閉的かも・・・


ただだから、そのままにして良いと言うことではないでしょう。
そのことについては、過去に次の二つの記事に書きましたが、
障がいは個性か? その1
障がいは個性か? その2
少なくとも既存の社会システムが、現時点ではマジョリティの
根拠の曖昧な健常者とされる人々を基準にして設計されている以上、
自閉的傾向があるとされる人々にも適合した社会を作る必要があります。

すなわち障がいは個人の側にあるのではなく社会の側にあるのです。

でも、ごめんなさい。
かなり不寛容な、規則でがんじがらめの、そして互いに監視しあう
今、健常とされている人々には生きづらい社会になるかもしれません。
でも、社会は基本的にこの(不寛容で監視しあう)方向に進んでいるので、
将来は今、自閉的でマイノリティとされている人々が
マジョリティになる可能性大ですね。
いわゆるマニュアル世代・・・


そうなんです。
自閉的傾向のある人が生きやすくなる社会とは
今、健常と呼ばれている人が生きづらくなる社会
なのです。
ただ全体としては幸福度があがるでしょう(ほんとに?)
その覚悟が出来ていますか?

さて、冒頭で私は、
「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」については障がいではなく、
個性と言えるかもしれない
と書きました。

これは先日、記事にした「ディスアビリティとディスオーダー」の文脈では、
ディスオーダーと呼ばれる障害についてであり、
ディスアビリティと呼ばれる障害については
個性と言って良いのかどうかは今のところ、保留させてください。