以下は1980年に策定された国際障がい者年行動計画第六十三項全文です。

障害という問題をある個人とその環境との関係としてとらえることが
ずっとより建設的な解決の方法であるということは、
最近ますます明確になりつつある。
過去の経験は、多くの場合社会環境が1人の人間の日常生活に与える
身体・精神の不全の影響を決定することを示している。
社会は、今なお身体的・精神的能力を完全に備えた人々のみの
要求を満たすことを概して行っている。
社会は、全ての人々のニーズに適切に、最善に対応するためには
今なお学ばねばならないのである。


また障がいの定義は次のように変遷してきているそうです。

1.障がいは個人の問題である。
問題は障がいを持っている個人であり、
社会参加できるように治療しなければならない。
治療できず社会参加できない人は隔離するしかない
と言う考え方です。

2.障がいは社会的構成物である。
マジョリティの人がマイノリティの人の
自分達と違うところを障がいと定義して、障がい者として扱うからだ。
実は障がいなんて存在しておらず、社会的に作られたものであり、
皆の先入観を取り除けば障がいはなくなると言う考え方です。

3.障がいは社会的創造物である。
個人が悪いのではなく、社会の構造が障がいを作り出している。
ある人が施設を利用できないのは、施設の設計が悪いのであり、
その人が障がいを持っているからではないと言う考え方です。

国際障がい者年行動計画第六十三項にしても
障がいの定義の2や3にしても、本当は障がい者なんて存在しない、
あるいは健常者と障害者に違いは無いと言っており、
このことを「障がいは個性」だと表現したのだろう。
しかし、今まで社会的に障がい者と呼ばれていた人の機能障害自体が
無くなる訳ではない。
やはり様々な支援は必要であり、場合によっては今までより
手厚いサポート体制が必要になる。

このことを誤解、あるいはわざと誤読して
「障がいは個性」を独創的な絵を描くとか考え方をするとかと
同次元で理解して、
機能障害を持つ人々に対する様々な支援を止める口実に
使われるのではないかと私は危惧するのです。
特に国や自治体の財政難もあり、支援を打ち切る根拠として
「だって障がいは個性なんでしょ?」
と言われてしまうのではないかと思う。
このようにわざと誤読する人がいる限り、当事者が「障がいは個性」
言うべきではないと思う。