障がいを持つ子ども達を支援するNPOの方々と話をすると
良く「障がいは個性」と言う言葉を聞く。

この言葉のニュアンスは十分に理解できる。
健常者と障がい者はどこで線引きされるのかその境界は微妙だし、
健常者も加齢とともに少なからず障がいを持つようになる。
そう健常者と障がい者は全く別の分類ではなく実は地続きなんだ。
だから、障がいを持っている人と健常者に基本的には違いはないから、
同じ人権を主張できる。

基本的には肯定するけれど、「障がいは個性」と言う
言葉にやはり違和感を感じてしまう。
個性と言う言葉には肯定的価値が含まれている。
障がいを持つ人の多くは、その障がいを克服したい
あるいは障がいはなければないにこしたことはない
と思っており、個性ではあるけれど積極的な個性ではない。

「障がいは個性」と言うことによって、
障がいを持つ人に対するケアが疎かになるのではないかと思う。
さらに健常者と同じ人権を持つことから、障がいを持つ人も
健常者と同じ義務を負うべきだという議論にはならないのだろうか?
あるいは障がいを持つ人は乙武さんのように明るく努力して
障がいを克服すべきだと言われ、あなたの努力が足りないとか
言われはしないだろうか?
「障がいは個性」と言う言葉に含まれる想いは理解するし、
当事者もケアギヴァーも精神的に楽になる効果もあると思う。
でも、そう言うことによって、私が危惧するような
全く正反対の対応をされてしまう可能性が高いのではないかと思う。

基本的人権はその人の能力に関わらず
全ての人に保障されるべきものだけど、
義務はそれぞれの人の能力に応じて負わされるものであり、
基本的人権の場合は、他のお金などで得る権利などとは違い
「権利を主張するなら、義務を負え。」とは絶対に言えない。

「障がいは個性」と言うことによって、
権利を行使できないことを「個性だから」と正当化されたり、
努力の足りない自己責任だと言われはしないかと危惧する。

障がいの有る無しに関わらず、
全ての人が基本的人権を保障されるような
社会の仕組みをつくるべきだと思う。

この問題についてはもう少し考えていきたいと思う。