神戸の垂水にあるNPOふぉーらいふさんに伺いました。

個人的には「不登校」だって良いじゃないかと思いつつ、
「不登校」とは何なのか良くわからないでいたのですが、
今回の訪問で不登校に対する自分なりの考えが
整理できたように思います。


今回、お伺いするまでは、私は政府やマスコミで取り上げている
不登校問題を扱うNPOに違和感を感じていました。
その訳は彼らは学校に戻すことを目的としていないにしろ、
自分達は学校よりもホモ・エコノミックスをうまく育てることができますと
主張しているように感じていたから
です。
それでは、基本的な問題は解決せず、「不登校」の人たちの中に
新たな格差を作り出すだけではないかと感じていたからです。
でも、そうは言っても学校に戻れるなら、戻った方が良いだろうし、
経済的成功=勝者みたいなドミナントな物語りを
積極的に肯定はしないまでも、戻れるなら戻った方が良い、
すなわち出世や金儲けができるなら出来た方が良いかもしれないと
考えていました。
しかし、これでは、私もかなり消極的であるとは言え、
「不登校」は悪いと言っているのと同じなんです。
これに対して、「不登校」は悪くないんだ!と言い切れるロジックが
私には無かった。

でも、今回の訪問ではっきりとわかりました。

「不登校を克服する」とは、学校に戻ることではない。
また学校に戻らないまでも、私は学校に行けなかったけど、
違ったルートで「社会的/経済的に成功しました!」
と言うことでもないだろう。
「不登校を克服する」とは、生きていることを素晴らしいと思えること。
その素晴らしいと思う人生の評価のひとつとして出世や金儲けも
あるのだろうと。
となると「「不登校」と言う言葉自体を脱構築しないといけないのだけど・・・

そもそも今の学校制度/教育は、
産業社会に適応する人材、工場労働に適応する人材を養成するために
設計されたものであり、
時間通りに席につく習慣をつけること、
集団で行動するルールを身につけること、
言われたとおりに効率的に淡々と作業をこなすこと、
なのだから、今の時代にそぐわない。
そこには、単純に良い大学に行って良い企業に入れば、
物質的に豊かになれるんだと言う全国民に共有された大きな物語りが
無邪気に無条件で信じられていた時代のシステムなんでしょう。
このあり方に対して無意識かも知れないけれど、
無邪気に無条件に信じられなくなった
子ども達が「不登校」と言う選択をしたのであれば、
素直に学校に通う子どもよりもある意味、優れていると言えるのではないかと思う。

じゃあ、どうするのかと言うことなんですが、
子ども達に多くの参考になる大人たちの姿を見せること。その触れ合いの中で、
押し付けられた目標ではなく、あるいは目標を
先延ばしにするのではなく、その時点での自らがなりたい将来像を
きっちりと確立し、その夢を実現するために必要となる能力を
自発的に身に着けようとすること、
そして、先生はそれをサポートすること。
でも、その参考になるような生き方をしている大人、
子ども達をしびれさせるような生き方をしている大人っているのかな?
もちろんお金儲けに成功したということではないのだけど。