渡辺 一史
こんな夜更けにバナナかよ

時代を感じるなぁ。
かって青い芝の会と言う運動があった。
今でも活動しているけど。
1970年代の高度成長の時代で障害を持つ人は
モダンの価値観にさらされ、頑張って労働に従事するか
家や施設に隔離されるしかなかった。
そのとき、意義申し立てをしたのが青い芝の会だった。

直接のきっかけは横浜で母親がCPの息子さんを不憫に思い
殺してしまい、それに対して情状酌量の意見が多く寄せられたことだ。
障害を持つ子なら、殺しても良いのかと
彼らは過激に自立を追い求めることになる。
「否定されるいのちからの問い」だった。



横田 弘, 原田 正樹, 長谷川 律子, 立岩 真也, 米津 知子, 金 満里
否定されるいのちからの問い―脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集

それに比べて、この鹿野さんはある意味、とても潔い。
できないものはできないんだから、人の助けを借りる。
助けることができる奴ができない人を助けるのは当たり前だ。
障害を持っているのに偉いわねぇなんて糞食らえ!だ。

無理して健常者の価値観に染まる必要は無い。
もともと違うのだから、健常者の価値観は押し付けることはないし、
先天性の場合、そもそも障害があることが普通なんです。
だから、可愛そうなんて健常者の傲慢だし、
ましてやあたかも健常者にように振舞えることを賞賛するのはおかしい。
障害を持つ人にとってそれは極めて不自然なことなんです。

障害を持つ人が無理して頑張らないで自然に振舞えることが
出来る社会こそ良い社会なんだと思う。
だから、障害者自立支援法の改正はおかしいということが
ようやく理解できた。

そうなんだ。
ひとりで全てできることが自立ではない。
実際の行動は人の助けを借りなければできないのならば、
人の助けを借りて何が悪いのだろうか?
我々だって一人で生きることはできない。


施設や他人の言いなりになって生きるのではなく(あるいは/および)
健常者のように活動できるようになることが
障害を持つ人の自立ではなく、
自分のことを自分で決定できることが自立なんだろう。

でも、鹿野さんが自由に振舞えたのは、
やはり青い芝の会の運動のおかげだと思う。