速水 敏彦
他人を見下す若者たち

「他人を見下す若者たち」を読んで
今年の娘の運動会での校長の閉会の挨拶を思い出した。

一位になるにこしたことはないが、 例え、一位になれなくても
一生懸命な姿を先生は評価したい

と言っていました。

でも、実際は一生懸命なビリより おふざけな一位の方が評価される。
最初はビリだけど、一生懸命頑張って
最終的に一位になれば評価されるけど
一生懸命やっても、いつまでもビリであり続けることは 評価されない。
頑張っても頑張ってもビリなのに、 頑張りが足りない、努力が足りないと怒られる。
そして、自尊感情が損なわれ・・・

であれば、一生懸命のビリよりもおふざけのビリの方が良い。
おふざけのビリであり続ければ、
「一生懸命すれば、僕だって一位になれるんだ!」
と言う幻想の世界に住み続けることができる。

方法が正しく、一生懸命頑張ってもダメな子どもはいる。
認めたくは無いけど、確かにそのような子どもはいる。
この子たちを救うために軽度発達障害と名づければ良いのだろうか?
しかし、ある意味、生き易くはなるけれど
名づけられることによって受ける制約も多い。
その制約から抜け出すために、
この子には何か特別な能力があるはずだと 特別な能力捜しが始まる。
そして、それには様々な経験をさせることが必要になる。
色々な経験がお金でしか買えないとすれば
裕福な家庭の子どもしか特別な能力を開発できない。
あるがままに生きることはやはり出来ない。
昔なら、生きる力がない人は短命だったのだろうけど、
今では生き続けることができ、そのコストは他人が負担する。
このまま進めば、差別を受けてきた黒人社会のように
権力によって弱者と定義された人々の間で
能力差が強調され、憎しみあい、本当に解決しなければ
ならない社会の構造は温存される・・・

おふざけな一位よりも真剣なビリの方が評価すると言いつつ、
実際はおふざけな一位の方を評価するが、
おふざけな一位が少しでもズルをしていることがわかれば
徹底的に攻撃する社会になっているような気がする。
その結果、自己肯定感をもてない子どもが自分より能力がないと
根拠なく見なし、他人を見下すようになるのかな?

真剣なビリを如何に評価すれば良いのだろうか・・・
難しい・・・