あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。
この箇所ではモーセが座していて民、つまりイスラエルの民に裁きをしていました、聖書にあるように神の御心ではなく神の御心の裁きをしていました、世の日本の裁きの座をみてみると、お殿様がいる時代と今の時代ではずいぶん方法も形式も違いますね、もう昔の裁きの仕方はなくなっています。
いつその時代の座がなくなるのか?腐敗したり、しっかり法にのっとってやってない場合にその時代の裁きの座はなくなる…これが歴史から見るとわかってきます、モーセの座も同じでした。
マタイによる福音書23: 2
「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
ですが、モーセの座は神の御心ではなくなっていました、これは今のクリスチャンへの警告、型であることもわかりますね、最初はしっかりしていたのにだんだんとおかしくなってくる…
旧約時代のさばきの座が新約時代のさばきの座に移行したことが解ります。
こういう座もあります
それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
ここにも座があり、その座につくにはどうしたらいいのかが、なんと書いてあります。
イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
御存じの通り地上の座は移り変わっても天の座は変わらないです。
御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
ペルガモの教会にはサタンの座があります、すごいですね しかし信仰を捨てないのが肝心です。
ペルガモにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。
わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
既にキリストが先に歩まれたので、その後に続く事が出来ます。
ヘブライ12: 2
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。