「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。
だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。目の見えない者、足のなえた者、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、
あるいは足や手の折れた者、
くる病、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。
祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、主への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。
前回は くる病 のたとえでした、今回は肺病の喩えのほうを聖書から見ていこうと思います、私なりに。
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
まず第一に人間は鼻からいのちの息を吸う ということを覚えてください
この息によって生きているのです
世の中のことと聖書のことをごっちゃに混ぜ合わせて、付け加えて考えると誤ります。
かつての旧約の神の民のように
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」
彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。
そして息、息吹とは・・・ 聖書を検索します。
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
聖霊を指すことがわかります、クリスチャンが生きている状態とは聖霊によって生きてることがわかります。
サルデスの教会は?実は死んでいるのです、もちろん肉的には生きていますが霊的な事柄を指して書かれていることが理解できますね。
また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
戻ります。
くる病、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。
肺とは聖書では息、聖霊を貯める、呼吸する器官とみています(霊的に)
マラソンでも肺に空気がないと走れません、同じようにクリスチャンも聖霊なしには生きていけません、しっかり呼吸し生きていくのです。
たとえで肺病ですと聖霊を保てずにいるので神の前に捧げものをささげることが禁止され、神に受け入れられないのではないかと思うのです。
かつても、そして預言にもなっていますがこういう箇所があります。
このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。
一般の、まだクリスチャンではない人を祭司にして活動させていたのです、
誰でもオッケー!今のおかしくなってる教会みたいですね。
一方聖霊のとどまってる人もいます、聖霊、命の息吹がとどまってます。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
少し見ていきます
この人は正しい、
敬虔な人で、
イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。
この三つが挙げられます、聖霊が留まっていることとこの三つが関連しているので、このような状態であることが是だと理解でき、そうしていこうとおもうのです。
イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。
イスラエルとは神の民、神に購われた民(出エジプト記・奴隷の家から購われた)としてクリスチャンの喩えになっています
聖書でバプテスマを検索してみてください。
新共同訳のエフェソ2章をご覧ください、イスラエルとはたとえで今のクリスチャンのことを指します。
イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。
以前の旧約時代の最後頃も背教がありました。
そして二重の預言になっているので
新約時代の終わりにも背教になるので、イスラエルが慰められるのを待ち望む人々が出てくることがわかります。
例えばこんな動画のように偽のしるしや奇跡に騙されて獣のしるしをつけられていたり。