入口の門の前から内側の門の玄関の間の前までは五十キュビトであり、
門の内側にある控え室と壁柱には格子窓が取りつけられ、玄関の間もそうであった。内側の回りには窓があり、壁柱には、なつめやしの木が彫刻してあった。
ここをたとえで聖書から見ていこうと思います
入口の門の前から内側の門の玄関の間の前までは五十キュビトであり、
聖書の中では希望、信仰がなくならないようにまだできていない事柄を先に、予め書かれていることを知りますこのエゼキエルの神殿の箇所もそうです。
わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
キリストの再臨もそうです、まだですが予め聖書で約束されているから信じて待つのです。
門の内側にある控え室と壁柱には格子窓が取りつけられ、玄関の間もそうであった。内側の回りには窓があり、壁柱には、なつめやしの木が彫刻してあった。
格子窓が取り付けられ明かりが取り入れるように神によって設計された神殿、とても明るいです、教会とはつまり神殿とは明かりがたくさんある場所、光の場所としての役割があり、クリスチャンも本来そういう存在です。
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
クリスチャンはアブラハムの子孫、つまり霊的な意味合いで信仰による霊的アブラハムの子孫としての星にもたとえられています、光っていないといけないのですが、星に輝きがなくなります。
揺り動かしが来るからです。
そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」
こんな感じに暗くなってます
http://www.youtube.com/watch?v=gK3QntMoc7Q
戻ります
壁柱には、なつめやしの木が彫刻してあった。
この世は砂漠のような場所、さらに教会もキリストではなく人間が主人になったり、カルト化したり、間違った方向に行くと、ひどい場所になります
本来は水の潤う場所オアシスのような場所であるのにそうなります。
砂漠で干からび体力も尽きて這うようにしているときに遠くになつめやしが見えると オアシスがある 水がある ということで救われます。
聖霊にたとえられている水の潤う場所として なつめやしはそこで生きる人たちが潤う場所である・・・と 私は感じています。
聖書をみんなで読んだり、聖書の解釈、解き明かしをしたり
皆でお祈りをしたり
昔の讃美歌をみんなで歌ったり 潤う場所としての教会を形作っていきませんか?
なぜなら新しい神殿の中に なつめやしの木が彫刻されているのですから。