創世記33:13
ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。
33:14
あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」
ここを見て行こうと思います 大切な事だと思います。
創世記33:13
ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。
他の箇所を検索すると意味がわかります。
乳
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
とあって、新改訳では みことば 新共同約では 混じりけのない霊の乳 となってます、そうすると この箇所の意味あいも開けてきます
創世記:49:12
その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い。
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羊
ヨハネによる福音書21:16
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
とあり、クリスチャンのたとえになってます
牛
1コリント9: 9
モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。
聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。
とあり、クリスチャンのたとえになってます
創世記33:13
ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。
一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。
クリスチャンはこういう特徴を持っているのです、安らぎ、平安、きれいな水(聖霊)、牧草(みことば)こういう場所に住んでこそクリスチャンの幸せがあるのだと つくづく最近特に思わされます。
イザヤ書32:17
義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。
32:18
わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。
32:19
――雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。――
32:20
ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは。
義 平和 とこしえの平穏と信頼 とあり、義が大切なのが解ります、なんでもOKそうではなく義 つまり裁きが必要なのです。
エゼキエル書34:17
わたしの群れよ。あなたがたについて、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、羊と羊、雄羊と雄やぎとの間をさばく。
34:18
あなたがたは、良い牧場で草を食べて、それで足りないのか。その牧場の残った分を足で踏みにじり、澄んだ水を飲んで、その残りを足で濁すとは。
34:19
わたしの群れは、あなたがたの足が踏みつけた草を食べ、あなたがたの足が濁した水を飲んでいる。
34:20
それゆえ、神である主は彼らにこう仰せられる。見よ。わたし自身、肥えた羊とやせた羊との間をさばく。
先に牧場(教会にいるクリスチャンが良いものを食べ、飲みそのあと濁したものにしてしまう、そうならないように注意したい所です、裁きがありますから。)
33:14
あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」
急いだものの勝ち、着いて来い!的な、速ければ神に喜ばれる? そうではなく羊(クリスチャン)の歩みにあわせ旅を続けて行きましょう 牧者の皆さん。