全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
ここを見て行きます。
全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
アブラハムとロトの箇所です、これから何処に天幕を張ろうか、そういう場面です。
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
ロトは潤っている「ソドムとゴモラ」を選択しましたが、神はソドムとゴモラを滅ぼされました。この箇所はとても重要なキーワードが沢山隠されています、というのも終末に関するキーワードがありますから。「ロト・ヨルダン・ソドム・ゴモラ・エジプト」
バビロンとソドム・ゴモラの関連性↓
こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。
そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。
そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。
山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時の来るのは近く、その日はもう延ばされない。
ここで、バビロンがソドム、ゴモラと同じようになる事が預言されているので、バビロンの箇所にこの箇所が+できます。
彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。
似ていますよね?
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
滅びる場所が潤っている 世の中の常識では、「潤っている場所は大丈夫、平和だ、安全だ、飢饉も疫病も剣も見ることは無い。」こんな感じでしょうか、しかしながら世の中の一般論と聖書をごちゃごちゃにすると、聖書の定義を見落としてしまいます。
別の箇所ですと
私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
クリスチャンもどうなんでしょう、つまり目で見て潤っているのを見て決めているような感じを受けます、人が多い、楽しそうにしている、若い人が多い、音楽が楽しい、会堂が立派、牧師さんが何人も居る、献金が一杯などなど、書きたい事はそういう目で見える事柄ではなくて、神様に滅ぼされるか否か ここにポイントがあるのです。
宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。
「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」
彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。
ここでも、目に見える事柄で「評価」してしまっています・・・が結果は予想とは逆です。
というわけで見えることによらずに ちゃんと、聖書から外れていないか吟味していきましょう。
主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。