ユダではダビデの兄弟のひとりエリフ。イッサカルではミカエルの子オムリ。
ゼブルンではオバデヤの子イシェマヤ。ナフタリではアズリエルの子エリモテ。
エフライム族ではアザズヤの子ホセア。マナセの半部族ではペダヤの子ヨエル。
ギルアデのマナセの半部族ではゼカリヤの子イド。ベニヤミンではアブネルの子ヤアシエル。
ダンではエロハムの子アザルエル。これがイスラエル各部族のつかさたちであった。
ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。
ツェルヤの子ヨアブが数え始めたが、終わらなかった。このため、御怒りがイスラエルの上に下って、その数はダビデ王の年代記の統計には載らなかった。
ここを見て行こうと思います、聖書から私の思ってることで。(たとえも含めて)
ユダではダビデの兄弟のひとりエリフ。イッサカルではミカエルの子オムリ。
ゼブルンではオバデヤの子イシェマヤ。ナフタリではアズリエルの子エリモテ。
エフライム族ではアザズヤの子ホセア。マナセの半部族ではペダヤの子ヨエル。
ギルアデのマナセの半部族ではゼカリヤの子イド。ベニヤミンではアブネルの子ヤアシエル。
ダンではエロハムの子アザルエル。これがイスラエル各部族のつかさたちであった。
この前の箇所もそうですが、名前、人数、何処に属しているのか。
そういうことがこまごまと書かれています。
ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。
27:23
ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。
という事と、
主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。
ここは関連しています、ふやす約束があるのに本当に増える傾向があるのか?信仰によらず数を数え、目で見て数えて主の約束が本当か検証する。
ここにポイントがあるように思います、何って、今の日本もそうです、クリスチャン人口が少ない、人数が少ない、若い人がいない(二十歳以下)なんて聞きますが、これも不信仰による事ではないでしょうか?
(私もそんな不平を言っていたので止めようと思います)
ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。
天の星にたとえられている、信仰による義、信仰の父アブラハムの霊的子孫クリスチャン
それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、
こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」
こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。
確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。
そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。
イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。
ということです。忍耐が必要。さらに
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
サラは 「もうだめだ・・・日本のクリスチャン増えない○○人しかいない」 そうではなくて
今は何かと、教会(キリストのからだ)が死んだも同然、「教会は若返らなくちゃ」「若者の流行を取り入れなきゃ」 なんていう流れがあります、そうしないともう無理なんじゃないの?
ローマ4:19
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
もう神の子たちを宿す力がない、もうだめだ・・・
と言う目に見て、数え・・・ 不信仰になりやすい?ですが 信仰は弱りませんでした 次
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
一体どういうことでしょうか 人間的に見たら
クリスチャンが沢山生まれる教会=良い事
クリスチャンが生まれない教会=悪い事
そんな感じがあるかと思いますが、実はこの時期やっておくべき事柄があるようです。
ローマ4:19 から「信仰は弱らず」 ということと
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
「クリスチャンが生まれない もうだめかも」などと不信仰にならず
反対に、信仰がますます強くなって
どんどんクリスチャンが新生している教会ではなくて、その逆の教会ですが、信仰がますます強くなるチャンスの時期と見ています。
神に栄光を帰し、
今はなんでしょう、自分がアイドルになって自分に栄光を帰すクリスチャンが多いですが。また
(何で神様うちの教会で沢山信仰の子供たちが生まれないのよ・・・)(なんで、隣の教会はクリスチャンが沢山いるのに、うちの教会は・・・)(こんなにがんばってるのに何で!?)
などと心の中で思い こういう話に終始しまいがちですが 神に栄光を帰していませんよね
この時期にこれです。
ローマ4:19
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
ですから、なかなかクリスチャンが生まれない教会、少ないと感じているクリスチャンたち、数を数える事を止め上記のようになるのが主の御心と思います、また手段を選ばずクリスチャンを生むのではなく
また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。
とあるように、教会(女、妻にたとえられている教会)は「つつしみをもち」「信仰」「愛」「聖さ」を保ってクリスチャンを生む(新生)することが必須です。そうしないと聖書どおりにしないですし、滅茶苦茶、好き勝手するクリスチャンたちで満員になります、人を後ろで倒したり、走り回ったり、異言を解釈しないなどなど。
27:24
ツェルヤの子ヨアブが数え始めたが、終わらなかった。このため、御怒りがイスラエルの上に下って、その数はダビデ王の年代記の統計には載らなかった。
新共同約では 載せられなかった。 になってました。
数を数えて信じず、目で見て信じず、神様の約束を信じ続けましょう。
ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。
今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。
日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。
主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。
だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、
身を低くして天と地をご覧になる。
主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、
彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。
主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家に住まわせる。ハレルヤ。