狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
たとえで見て行きます、エルサレム(教会)とのたとえが解ると、また、聖書の隠されたこととして 書かれているすべての事が成就する報復の日 として読めると実は教会クリスチャンへの裁き、苦難の事が書かれています。
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
旧約の時代、実際こうでした、神の民とは名がつくが実際やっている事と言えば人の教えを付け加えたり、ベルゼブル論争の時に実は悪霊をファリサイ派がつかってる事が書いてありますし、聖霊(キリスト)を悪霊呼ばわりしています、その結果旧約の民はどうなったか、皆さんご存知の通りです。
わずかな、残りの者キリストの弟子たちが残りました。
今のプロテスタントの現状もそうであって
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 (かつてと、同じ事をしていますから)
7:15
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
にせ預言者たちに気をつけなさい。
2000年に日本で大リバイバルが起こる!! 外れたベニーヒンなどの預言でもあります。
彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
羊は(わたしの羊を飼いなさい の箇所などでクリスチャンです) 狼は羊(クリスチャンを狙います)
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
ぶどうは、いばらからは取れないし、
いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
かつての旧約の民 群集は そんな事自分でも知ってる!と考え、「たとえ」を理解しようとしませんでした
そして自分なりの解釈を沢山付け加えたのがこれです→http://www.gameou.com/~rendaico/seito_palesutina_yudayaginmondai_tarumudoco_nakamico2.htm
しかし弟子は主にたとえの意味について教えてくださるように 主に求め続けました。
ぶどうは、いばらからは取れないし、
いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
ぶどうは わたしはぶどうの木あなたがたはその枝である の箇所等で、霊の実を結ぶクリスチャンが「ぶどう」とたとえられています ぶどうと、いちじくが同じ順序で書かれているので いちじくも同じクリスチャンの事とここでは主のヒントがあると思ってます。 いばらもあざみも同じことである可能性が高いと思ってます。(たとえでは)
神様からのヒント
イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
ふつう、ぶどう園にはぶどうでしょう・・・でも「たとえ」では同じなのです
この箇所でも 木を切り倒し と言う事がかかれてます。
いちじくと星
そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
天の星といちじくの関係がかかれています、天の星も アブラハムの子孫が星とたとえられているので
霊的アブラハム(信仰の父)の霊的子孫クリスチャンの事の「たとえ」であって(ローマの手紙参照)
天の星といちじくは 「実は同じ意味合いがある」ことがわかります。
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
聖書のいばらの定義を集めました。
もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、
世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
申命記:22: 6
火災を起こし、それがいばらに燃え移り、そのため積み上げた穀物の束、あるいは立穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、出火させた者は、必ず償いをしなければならない。
ヘブライの手紙6: 7
土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
御言葉を聞いてはいるが世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込み、御言葉をふさぐクリスチャン そして火で燃えるのに近い場所にいます。
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
なるほど、けれど嘘をついたり偽ったり偽善であると、見分けは難しい気もしますが。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
木は実を結ぶクリスチャンの一面です。
火とは イザヤ 33:11 枯れ草をはらみ、わらを産め/火のような霊がお前たちをなめ尽くす。
や聖霊が炎とたとえられていますので、霊系統の事です。(たとえでは)
ですから、肉的には 実を結ばない木が倒されて 火に投げ込まれる場面をみていないので、「平和だ、安全だ」とい考えになりますが。
たとえでは、もうすでに始まっているのを見ています。 そんな動画を集めました。
木(クリスチャン)が 切り倒され 悪霊(火)で焼かれる。
と言う事でなんと、私たちは神の裁きをこの目で見ているのです!
見分けてください。
http://ameblo.jp/rebanonn/theme-10010468416.html
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
7:21
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
21節と20節の関連 21節と20節の関連・・・続いてます、誰が神様を主というのでしょうか?考えてみてください。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
現在も悪霊の追い出し、あなたの名によって奇跡を沢山行なってるクリスチャンたちがいます。
悪霊で悪霊の追い出し 奇跡をしています。とても危険です
勿論ベニーヒンは悪霊を聖霊と言っていますが、それを信じてしまってます。
悔い改めて、霊の見極めをして欲しいです。↓
http://ameblo.jp/rebanonn/theme-10010468416.html
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
エレミヤの部屋では沢山聖書の隠されたこと、クリスチャンへの警告も「聖書から」載っています 是非ご覧くださって、主の裁きを過ぎ越しましょう。