ミヒャエル・エンデの名作と言えば「モモ」ですが、

私の卒論のガイドラインに使用したのが「はてしない物語」

そ、never ending storyです。映画は見てないけど。


ちなみに卒論のテーマは

「私たちにはなぜ、芸術や文化-漫画や音楽、茶道etc-が必要なのか?」

たとえば茶道なんて、あんなちまちました動きをせずに

普通にお茶を飲めばいいと思いません??


でも、あの決まった動きにはそれなりの理由があるんだと思う。

つまり、私たちは日常のコミュニケーションの大半を「言葉」に頼って行っているわけだけど、

実はそれ以外の部分、表情や声の出し方、動きなどでも伝達しているわけです。


だから論理的な「理屈」で理解できないものは結構多くて

言葉では説明できないけど「分かる」「好き」と言う物が多い。

その言葉では表現できない何かを仮に「感覚」と表現させてもらうと、

私たちは昔からその「感覚」をダンスや儀式、芸術で伝達してきたんだと思う。


ハイパー文明に生きる私たちが、

今なお音楽や映画、小説などの虚構に感動し続けるのは

それらから「感覚」を刺激されるからだと思う。


で、「はてしない物語」の内容。

主人公の男の子は、いじめられっこの少年で、

ふとしたきっかけから本の中の世界に吸い込まれ、そこで冒険をしながら勇者となる。


が、その世界に溺れだすと今度はバランスを崩し、

現実世界へ戻っていく。。。。というもの。


エンデ論を読んだ事のない私の感覚的な解釈だけれど、

「理屈」と「感覚」はどちらも等しく重要で、

そして世界全体のことを理解するのにどちらも欠かせない、

ということがメッセージとしてこの物語には潜んでいる。


なんで6年ぶりに卒論のことなんか思い出したのかと言うと、

先日受けた講座が「感覚」を呼び戻そう、と言う物だったから。


保守派のわたしがなんでこの講座には興味を持ったのかなー、

と考えていて、「あ、昔から『感覚』『感性』を呼び戻す物に興味があったからだ。」って

ことが思い出されたわけです。


そして、最近私が「しっくりこないな」と思っているのは

「理屈」の方を優先してばかりいるから。


「感覚」、こう書くと難しい感じだけど、

好きなことや興味あることに心のまま走るのもいいかなと再認識。

それが私の原点だわ。


卒論と「はてしない物語」は実家においてありますが

久しぶりに読んでみるかな。

そして6ヶ月検診が終ったら、お茶のお稽古を再開しよっと